HIROSE Jun, Pessoa

蜂起とともに愛がはじまる---思想/政治のための32章

「私は善人でなくて本当によかった。咲くことや流れることだけにそうと意識することなく集中し、おのれの道をひたすら突き進む花々や流れのそれのような自然的エゴイズムを私ももつことができて本当によかった。これこそが世界における唯一の使命ではないか。澄みきったやり方で存在するということ、そして、考えることなしにそうするということだ。」
 互いに思いやったり、社会正義を叫んだり、そのための闘争を呼びかけたりするような「善人」にとどまっている限り、人々は「不幸を運命付けられた」ままである。さらにまた、各人が自分で自分のことを考えたり気にかけたりすることすら、幸福を遠ざけることにしかならない。反対に、他人についても自分についてもいっさい考えを巡らすことなく「おのれの道をひたすら突き進む」花々や川の流れのそれのような「単純な魂」をもつときにこそ、つまり、自然界で生きられているような「エゴイズム」をそれとして取り戻し「善人」であることをやめるときにこそ、我々は幸福に生きることができる−−カエイロはそう言っているのだ。そしてまた、これを自身で体現する”超人”としてその姿を現すからこそ、ペソアはカエイロという自らの「異名者」を「我が師」とも呼ぶのである。(p147-148、「蜂起とともに愛がはじまる」)

AZUMA Hiroki, Rousseau

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

  • ルソーを見直す

 ルソーは都会の「おしゃべり」を嫌った。そして自然を愛した。四○年代の半ばからはパリを離れ、郊外の田園に居を構え、作品でも田舎暮らしへの郷愁を執拗に描き続けた。死後に出版された『告白』には、ルソーが同時代のサロン知識人に抱いていた、被害妄想めいた不信感が赤裸々に記録されている。小説の『新エロイーズ』と自伝の『告白』、両者はまったく異なった質のテクストではあるが、共通して印象に残るのは、スイスの湖畔や田園風景を描く瑞々しい筆致とパリの都市生活を描く沈鬱な文体の激しい対比である。晩年のエッセイ『孤独な散歩者の夢想』では、彼はついにつぎのように書き留める。「この世にはもう隣人も同類も兄弟もない。私は地球の上にいながら、見も知らぬ惑星にいるようなもので、以前住んでいた別の惑星から落ちてきたような気持ちである。」
 つまりルソーは、一般に政治思想家や社会思想家といった言葉で想像されるものとはかなり懸け離れた、現代風に言えばじつに「オタク」くさい性格の書き手だったのである。彼は、人間嫌いで、ひきこもりで、ロマンティックで繊細で、いささか被害妄想気味で、そして楽譜を写したり恋愛小説を書いたりして生活をしていた。『社会契約論』は、そのようなじつに弱い人間が記した理想社会論だったのだ。
 だから彼は、コミュニケーションなしの政治を夢見た。サロンなしの一般意志の生成を掴もうとした。(東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』、p61-62)

 けれどもルソーにおいては、対照的に、社会が生まれたのは、単純に人間が他人の苦しみに共感し手を差し伸べてしまうから、彼自身の言葉を用いれば「憐れみ」をもっているからということになっているのである。人間は「憐れみ」のゆえに、幸せな孤独を捨てて群れて生きてしまう。そしてこの「憐れみ」は、決して人間独特のものではない。それは理性や反省から離れたもので、一部の動物たちにも備わる能力である(「それはわれわれと同じように弱く、同じように不幸になりやすい存在にはふさわしい素質であり、人間にとって、あらゆる反省の行使に先立っているから、ますます普遍的で有益であり、獣さえもときにはその徴候を示すほど自然な美徳である」)。そして、人間は、まさにその「獣」に近い能力によってこそ社会を作って自分たちを守ることができたというのが、ルソーの主張なのである。彼はつぎのように述べる。「理性によって徳を獲得することは、ソクラテスやそれと同質の人々のすることであっても、人類の自己保存が、人類を構成する人々の理性の行為にのみ依存するのであれば、ずっと以前に人類はもう存在しなくなっていたであろう」。人間は人間(合理的存在)だから社会を作るのではない。人間は中途半端に動物だから社会を作ってしまうのであり、むしろその弱さによって、人間は人間としてかろうじて生き続けてきた。それがルソーの基本的な人間観、社会観なのだ。(同書、P123-124)

 筆者の考えでは、ルソーの理想は、意識ではなく無意識に、「人の秩序」ではなく「モノの秩序」に導かれる社会にあった。実際にそのように解釈してはじめて、彼が、『社会契約論』の著者であるのと同時に、ロマン主義を準備した情熱的な文学者であり、恋愛小説や告白小説の作者でもあったという事実が整合的に理解できるのである。この思想家については長いあいだ、政治思想家の側面と文学者の側面、『社会契約論』と『告白』の分裂が指摘されてきた。しかし、筆者の観点からすれば、いままでそれが分裂しているように見えてきたのは、ルソーのいう「意志」をあくまでも意識的な行為として、そして「社会契約」を功利的で合理的な判断による行為として捉えてきたからにほかならない。しかし実際には、ルソーはそこで、意志として理解されない意志、契約として意識されない契約についてこそ語っていたのだ。
 そして、このルソー理解からは、必然的に、近代の民主主義社会は、熟議民主主義の理論家たちが主張するのとは異なり、じつは「大衆の無意識に従うこと」を目的として生まれたという結論が導かれる。(同書、p165)

KOKUBUN Koichiro, ennui

暇と退屈の倫理学

  • 人間的自由の本質

 ここで誤解してはならない。人間は習慣なくしては生きられない。人間はどうあっても、気晴らしと退屈の混じり合った生を生きざるを得ない。だから、この条件を超越して、考えることのきっかけをすべて受け取ろうと考えたり、人に「目を開け!」「耳を凝らせ!」などと強制してはならない。それは「人間は世界そのものを受け取ることができる」という信念の裏返しである。そしてその信念は人間の奴隷化に帰する。
 人間が環境をシグナルの体系へと変換して環世界を形成すること、つまり、様々なものを見たり聞いたりせずに生きるようになることは当然である。大切なのは、退屈の第三形式=第一形式の構造に陥らぬようにすること、つまり奴隷にならないことである。
(……)
 人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと「不法侵入」を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。この環世界の創造が、他の人々にも大きな影響を与えるような営みになることもしばしばである。たとえば哲学とはそうして生まれた営みの一つだ。
 しばしば幸運な例外もあるだろうが、人間はおおむね人間的な生を生きざるを得ない。だが、人間にはまだ人間的な生から抜け出す可能性、〈動物になること〉の可能性がある。もちろん、人間は後に再び人間的な生へと戻っていかざるを得ない。人間は習慣を求めるし、習慣がなければ生きていけないのだから。だが、ここにこそ人間的自由の本質があるのだとしたら、それはささやかではあるが、しかし確かな希望である。あるときに人間が開けてしまった退屈という名のパンドラの箱には確かに希望が残っているのである。(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p334-335)

KAWAMOTO Hideo, autopoiesis

飽きる力 (生活人新書 331)

  • 理論の「間接的活用」

 オートポイエーシスというのは、あらかじめ設定された観点であってはいけないのです。オートポイエーシスをあくまで道具として活用したい人は、経験を前に進めるときに,傍らにいつも手掛かりとして置いておいて,それを横目で見ながら、なおかつ前に進むという、そのように配置しておくのが一番いい。つまり、理論の「間接的活用」ということがとても重要なのです。
 あくまで前に進むための手掛かりにしているのであって、それを使っていろいろなことを説明したり、わかったりする理論ではないのです。かりにそうだとすれば、立場や観点になってしまいます。しかも、それを応用すれば、いろいろなことが実際に語れてしまう。そこが非常に難しいところで、多くの人たちは、使い勝手のよい道具を求めているのです。
 しかし、それでは、たとえば二年なら二年、使えるだけ使ったらそれでおしまいということになってしまう。このときに何がいけないかというと、オートポイエーシスの「構想」そのものが一つも前に進んでいないということです。さらにいえば、これまでの経験の仕方とは異なる経験の仕方があるということに気づくことができていないことです。オートポイエーシスというのは、確定した理論ではなく構想ですから、それ自体が進まなければいけない。そうすると、自分の経験が進むと同時に、オートポイエーシスというものが本当は何を語っているものなのかという輪郭がより明確になり、かつ定式化が変わっていくようにならなければいけないのです。(河本英夫『飽きる力』p83-85)

YASUDA Yojuro, OTOMO Yakamochi

万葉集の精神―その成立と大伴家持 (保田与重郎文庫)

  • 防人について

彼らは時局に対して志士の如くに立つことは思ひよらなかつた。彼らは政治の裏面の頽廃は知らず、情勢の帰趨も知らず、しかも美しい畏命の心情に住んで、よく国の根柢の、沈黙の土台となり、この同じ意味から当時の上層の陰謀政治をも支へてゐたのである。何によつて支へたか、即ち真の国の歴史の精神を護り伝へるに足る至誠尽忠の神(かむ)ながらの至醇心によつて、謬つた情勢政治のために、国の根柢の崩壊する危機を支へ守つてゐた。しかもそれが真の歴史を支へる道であつた。さういふ情態の悲痛さは今云ふ必要がない、天平の歴史を支へたものは、神を何の自覚もなく己の中にもつた国民だつたのである。この自覚と反省をさして国民精神と呼び、その事情と現れの美しさを示す古典の徴証がわが万葉集である。さういふ意味では崇高か悲痛か、今日では言葉さへないが、家持はさういふ事実をすでに己に反省し自覚してゐたのである。(保田與重郎万葉集の精神−その成立と大伴家持』)p421-422

YAMASHIRO Mutsumi,SAKAGUCHI Ango

文学のプログラム (講談社文芸文庫)

  • 戦争について

 われわれは、その芯にある美しさにひかれて「戦争」に帰りつつある。危険な日本回帰だと、帰ることそのものを否定しても始まらない。問われなければならないのは、そのことに「うしろめたさ」を感じているかどうかということ、そしてほかならぬその「うしろめたさ」から書くことができるかどうかということである。
 そこから書くことはできる。のみならず、そこから書かねばならない。安吾において読んだように、帰ることの「うしろめたさ」から書くときにのみ、文学は生まれる。その場合にのみ、書くことは「戦争」がその芯から匂いたたせている魅惑的な美しさに抗しうる。戦争の現実的な力(power)に対するに文学の力(virtue)をもって処することができる。それが信じられないのなら、書くことにどんな意味があるというのだろうか。(『文学のプログラム』p96、引用・ページ数は太田出版の単行本による)

an extramural lecture,

職場での公開講座を終える。講演のあとで三人程の人が声を掛けてくださったのがうれしかった。本を借りてくださった人も。上出来。
同僚のSさんからは丁寧さが足りないとのご指摘。ごもっとも。ちょっと聴き手の知識をあてにしすぎている。専門家に近い相手というか、現役大学生くらい(今ならひょっとすると大学院生くらい?)を想定したレベルの話になっていたかも知れない。
まずは無事終了。肩の荷が下りる。ほっ。


18時20分、まだ少し雨が降っているので自転車には乗れない。もう少し仕事をしながら雨やみをすることにした。18時50分、諦めてバスで帰ることにする。


妻がイタリアに旅立って4日目。
明日は掃除や洗濯をしよう。
今日は娘が夕食を作るとは言っていたが、さて...