YOSHIMURA Akira, Hunter

羆嵐 (新潮文庫)

  • 自然

 三毛別の村落内には、事故の全容がすさまじい早さでひろがっていった。
 島川の妻の体が原形をとどめぬまでに食いつくされ、殺された子供との通夜の席に羆が板壁を破ってふみこみ、さらに、明景の家で四名が殺害され三名が重傷を負わされたことがつたえられた。殊に斎田の妻は臨月の身で、孕った退治も羆に食いつくされたことが村落の者たちを戦慄させた。
 それらの話の中には、区長たちの知らぬこともふくまれていた。それは、ようやく落着きをとりもどした被災者の口からもれたものであった。
 明景の家に羆が闖入してきた時、明景の長男である十歳の少年は、土間に二段積みにされた雑穀俵のかげにひそんで奇蹟的にも難をのがれたが、かれは、羆の荒々しい呼吸音にまじって骨をかみくだく音もきいた。
 かれの耳に、
「腹、破らんでくれ」
と、羆に懇願するような叫び声がきこえた。それは、臨月の斎田の妻が発する声だったという。彼女は、羆に食われながらも母性本能で胎児の生命を守ろうとしていたのだ。
 また明景家の老婆は、羆が居間の壁をぶち破り、炉をとびこえて入りこんできたことも口にした。その荒々しい動きで炉にかけられた大鍋がくつがえって火が消え、逃げまどう人びとがランプを蹴散らしたため家の内部が闇になった。その直前に羆を瞬間的に見た彼女は、その体の大きさを口にした。それは肥えた牛馬よりもはるかに大きく、殊に頭部がいかつい岩石のように見えたという。(吉村昭羆嵐新潮文庫、1982、p78-79)

「クマはいたか」
 分署長が、銀四郎にたずねた。
「いました。二十分ほど前に、一番下にある家から出てきて山にのぼってゆきました。その家の前で、こんなものをかじっていた」
 銀四郎は、雪の上においた石に眼を落とした。
 男たちは、身を寄せ合って石を見下した。それは、カボチャ大の石で鋭い歯でかみくだかれたらしく四分の一ほどが欠けていた。
「これは、湯たんぽじゃねえか。一番下の家といえば松浦の家だが……」
 六線沢の男たちの声に、長身の男が前に歩み出た。
 男は石に手をふれると、女房の湯たんぽだと言った。適当な大きさの石を焼いて布にくるみ、湯たんぽ代わりに寝具の中に入れる習慣がその地方の開拓民の間に広まっていたが、冷え性の松浦の妻は、雪の訪れと同時に毎夜炉で石を焼き使用していたという。
「なぜこんな石をかみくだいていたのだ」
 分署長の顔に不審そうな表情がうかんだ。
「これが、女の使っていた物だからですよ。どこの家でも腰巻きや女の枕がずたずたに切り裂かれていた。女の味を知ったクマは、女の匂いのする物を手当たり次第にあさるのです」
 銀四郎の言葉に、男たちはうなずいた。
「山にあがっていったというが、それきり山中に入ってしまったのか」
 分署長が、銀四郎の表情をうかがった。
 銀四郎は、薄笑いを浮かべながら頭を大きくふると、
「クマの奴は、まだ満足なんかしていない。食いたがっているよ、女の体を……。しかし、村落内に女はいないし、おそらく下にくだってきて餌をあさるだろうな」
 と、ゆっくりした口調で言った。(同書、p170-171)