HIRAKAWA Katsumi, the dignity of man

俺に似たひと

  • 尊厳

 居間で上着を脱がせて、風呂場の脱衣場で下着を脱がせる。脱がせた下着はそのまま洗濯機に放り込み、洗剤を入れてスイッチをオンにする。まだまだ寒いので、衣服を脱がせたらすぐに湯船に入れなければならない。湯船につかると、数分間、気持ちよさそうに瞑目している。自分の身体を支えられなくなっている老人が、お湯の浮力を借りて座っている。
 「湯加減はどう?」
 と聞くと、いつも同じ答えが返ってくる。
 「気持ちいいなぁ。風呂はいいなぁ」
 五分も湯につかっていると、父親の胸の辺りからヒューヒューと異音がしてくる。肺気腫があるので、すぐに呼吸が苦しくなってくるらしい。湯船から引っ張り上げて、持ち込んだ円椅子に座らせ、頭と身体を洗ってやる。背中がかゆいらしくて、強く洗ってくれと催促がくる。
 寒いので速攻で洗うが、おむつを当てていた股間は念入りに洗う。最初はお互いに抵抗があったが、慣れてしまえばなんということもなくなる。だらりぶら下がったイチモツを引っ張って、ごしごしと洗えるようになる。
 お尻の穴に指を突っ込んで、溜まっているウンチを掻き出すこともある。これをしないと、どうしても便秘になってしまうのだ。おそらくは、腸がぜん動運動をしなくなているために、下痢と便秘を繰り返すのである。だから、お漏らしをする。
 昼間、ときおり父親が突然叫びだすときがあったが、だいたいは大便を漏らしてしまったときであった。溜まりきって出てくる下痢便は、薄いリハビリパンツの堤防を容易に決壊させてしまう。大便を漏らすたびに、父親の自尊心もまた破損していく。
 「どうしてかな」と申し訳なさそうに言い訳をするので、
 「老いればみんな、同じだよ」と応えるのだが、気休めにしかならないことは分かっている。
 思うに、股間を洗えるようになることが、介護の第一ハードルを越えることになる。俺は、母親の股間を洗うことはできなかったかもしれないと思う。他人の股間なら、介護であれば何とも思わないだろうが、肉親の股間に直接手を触れるのにはやはり大きな抵抗がある。ましてや、男にとって母親の股間ともなれば、おいそれと接触するわけにはいかない。母親は介護に入る前に逝ってしまったので、その関門は越えなくて良かったと思う。(平川克美『俺に似たひと』、医学書院、2012年、p88-89)