YASUTOMI Ayumu, Plato

生きるための論語 (ちくま新書)

  • メノンのパラドクス

 論語の知識論の重要な点は、「知る/知らない」という状態よりも、世界への認識の枠組みを遷移させる学習過程としての「知」を重視する点にあると私は考える。
 この点については、プラトンの『メノン』に現れる探求に関するパラドクスと対比して考えるとより深く理解することができる。このメノンのパラドクスとは、次のようなものである。

人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから。*1

 このパラドクスを、単なる屁理屈として片付けることはできない。認知心理学者のギブソンの指摘したように、外界から入ってくるバラバラのデータを処理して世界の像を構成する、というような素朴な認識論に立つと、常にこのパラドクスにとりつかれることになるからである。というのも、バラバラの二次元の視覚データと矛盾しない三次元世界の像は無数にあり、どれが本当かを決めることができないからである。それを決めるためには、バラバラのデータをつなぎ合わせる方法を事前に知らねばならないが、それはつまり、もともと本当の像がどれか知っているのと等価である。つまり、見えているものが何かを知っていれば見えるが、知らなければ何が見えているかわからない。*2
 フリーマンというアメリカの脳科学者は、嗅覚に関する実験により、嗅球という神経細胞の塊の電位の変化を調べることで、

「何もにおいがない」、
「知っているにおいがある」、
「知らないにおいがある」。

という三つの場合にそれぞれ対応する、特徴的なダイナミクスのあることを発見した。「何もにおいがない」ときは、ランダムが対応し、「知っているにおいがある」場合は周期解に近い弱いカオス、「知らないにおいがある」ときには複数の周期解を渡り歩く運動が対応する。知らないにおいに動物が接した場合には、この渡り歩きの果てに、運動のあり方全体をつくりかえて、新しいにおいに対応する区分けが生じ、知らなかったにおいが知っているにおいとして落ち着きどころを見出すことになる。このとき、既に知っているにおいに対する運動も変化する。このような働きを脳は持っているらしい。*3
 この実験結果から、「知らないことを知らないとする」ということの重要性がわかる。「知らないものがある」と認識することで、探求の過程が始まり、新しい知識状態に向けて遍歴することが可能となる。
 マイケル・ポランニーは、『暗黙の次元』という講義録のなかで、このメノンのパラドクスが二千年以上にわたって解かれておらず、暗黙に知ること(tacit knowing)を認めることによって解決される、と指摘した*4。このパラドクスは、全ての知識が明示的であるとすると、何も知ることができないことを示すからである。
 論語のこの章は、メノンのパラドクスが、そもそも成り立たないことを、孔子プラトンの生まれる前に指摘していたことを示している。「知」とは明示的な実体ではなく、「知/不知」を峻別する暗黙の過程の名称だからである。p043-046

*1:プラトン『メノン』藤沢令夫訳、岩波文庫、1994、p45-46

*2:Gibson, James Jerome, The ecological approach to visual perception, Boston: Houghton Mifflin, 1979, p.261 (J・J・ギブソン生態学的視覚論−ヒトの知覚世界を探る』古崎敬ほか訳、東京:サイエンス社、1985)

*3:安富歩『複雑さを生きる〜やわらかな制御』岩波書店、2006

*4:Polanyi, Michael, The Tacit Dimension, Gloucester, Mass.: Peter Smith, 1983, pp. 22-3