KUMAGAI Tatsuya, Hunter

邂逅の森 (文春文庫)

  • 物語

「わがった。んだら、追ってみるべし」
 そう頷くや、小太郎と敬太郎が嬉々として沢が流れる谷底へとケツ橇で下りはじめた。清次郎と金吉、さらに重之と、残りの三人も縦に連なってそれに続く。
 敬二郎を助けながら谷を渡り、先に駆けていった仲間が待っている場所まで追いつくと、五人はひとかたまりになって雪面に屈み込み、しきりに感嘆の声を漏らしていた。
「親父っさん、見でみせ、こったげでけえ足跡(トアト)ば見だのは初(はず)めてだ」
 金吉に言われるままに雪面に残った足跡を見た富治は、思わず息を呑んだ。
 雪につけられた窪みの巨大さだけで息を呑んだのではなかった。足跡の形を見た瞬間に、昔、善治郎が酒飲み話で語っていた言葉を思いだして背筋が震えたのである。
 −−ミナグロだのミナシロだの、獲ってはわがんねクマはさまざまあるけんどよ、絶対(じえつてえ)関(かが)わってならねえのは、コブグマだがらよぐ覚(おべ)ぇでおげよ。コブグマだば、すばしっこすぎて撃っても当だんね。たどえ当だったかて、死にはしねえのしゃ。死なねえばがりが、逆(ぎやぐ)に人間(ぬんげん)さ襲(かが)ってくる。コブグマに襲(かが)られたら、どげなマタギだかて、ひとたまりもねえのっしゃ−−。
「だめだ、帰(けえ)るど」
「兄貴ぃ、こんな大物を前にしてそれはねえでしょう」
「そうっすよ親父っさん、こったげでけえクマっこだば、めったに出会えねえでの。みすみす見逃す手は−−」
「だめだっつったらだめだ。かまわねえで、早々(ちやつちやつ)と行(あ)べ」
 説明せずにそれだけ言い、村を目指して歩きだした。
 頭領(スカリ)の命令には逆らえない。不満の声を漏らしながらも、小太郎たちがついてくる。
 話にだけは聞きながらも、その姿はおろか、足跡さえも一度も目にしたことがないコブグマが、まるでアオシシの密猟と呼応するかのように出現したのはなぜなのか。
 逃げるようにして足早に立ち去る富治の胸中には、掴みどころのない不安が広がりはじめていた。(熊谷達也『邂逅の森』文春文庫、2006、p402-404

「如何(なじょ)すたね、富治さん」
 佇んだまま動かないでいる富治に向かって、鉄五郎が訝しげに尋ねた。
「申し訳ねえけんど、このまま奴ば追(ぼ)わせてくれんかの」
「追うって、ヌシをが?」
「んだ」
「おめえさんひとりで?」
「んだす」
 たまげたという顔つきでしばらく富治を見ていた鉄五郎は、やがてあきらめたように、はあ、とひとつ溜め息をついた。
「如何(なじょ)すても、そうすねばなんねえんだべの」
 この男なら自分の考えていることをわかってくれるはずだと思い、よけいな説明はせずに、そうだと頷くだけにした。
「ほだら、しっかど、気ぃつけでの」
「わがってる。だども−−もしもの時は、やゑばよろしぐお願えしますだ」
 深々と頭を垂れた富治の肩を、鉄五郎がぱんぱんと親しげに叩いた
「それよか、イクさんのことば一等に考えれ」
 顔をあげた富治に向かって、鉄五郎はさらに続けた。
「猟でも何でも山仕事は女人禁制だがらの、ふだんは口にしねえけんど、俺らが必死になってする山の神様へのお祈りは、実は、無事に女房のどごさ帰(けえ)してけろっていう祈りだど、俺は思うている。んだがらよ、いよいよの時は、イクさんのことば思えばいい。したら、必ず力が湧いでくるべじゃ」
 その通りかもしれないと、富治は思った。そして、山の中にいるにもかかわらず、あえてそれを口に出して言ってくれた鉄五郎に、深く感謝した。
「んだら、三日もあればかたがつくと思うで、まだあとでの」(同書、p502-503)