Jean-Pierre Dupuy, catastrophe and evil

ツナミの小形而上学

  • 原爆という罪

 ハンガリー出身の物理学者で、アインシュタインとともにルーズベルト大統領に書簡を送り、マンハッタン計画の推進を決断させたレオ・シラードは、没する少し前の一九六○年にこう表明していた。「ナチス・ドイツがわれわれよりも先に原子爆弾を開発し、アメリカの二つの都市に投下したはいいが、爆弾のストックを使い果たしてしまい、戦争に負けたと想像してみてほしい。その場合、われわれがその原爆投下を戦争犯罪に含めること、ニュルンベルクにおいてその犯罪の責任者を絞首刑にすることは、明白ではあるまいか?」
 オックスフォードの優れたカトリック系哲学者、エリザベス・アンスコムは一九五六年、さらに明解なたとえ話を用いてみせた。アンスコムはこう述べる。次のような状況を想像してほしい。一九四五年の始め、ドイツの執拗な攻撃をやめさせ、無条件降伏を強要して多数の兵士の命を救うべく、連合軍は、ルール地方の都市に住む、女性や子供も含む数十万人の市民の殺害を決意しなくてはならなかった、と。すると二つの疑問が浮かび上がる。(一)道徳的に見て、それはチェコスロバキアポーランドナチスがしてきたこととどう違うのか? (二)それは道徳的に見て、広島と長崎への原爆投下とどう違うのか?(ジャン-ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』嶋崎正樹訳、岩波書店、2011、P93-94)

 最近また有名になった元敦賀市長の講演(一九八○年代半ば)がある。「その代わりに、五○年後に生まれた子供が全部カタワになるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階では(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか……」。この地方自治体の長の唖然とさせる発言には、しかしある直截な「真実」が吐露されている。つまり、少しばかり長期で考えたら何が起こるかまったくわからないが、現在の実利的な事情にしたがうかぎり、原発をもつ(誘致する)ことの方に利益があるということだ。未来を考えたらわからない、しかし今は……。未来の災厄はまだ現実ではなく、目の前の経済的利益に動かされる。
 この市長にノアの預言を聞く耳はないだろう。だが、いま日本ではその「五○年後」が現実になっている。長らく「未来の非現実」とされてきたそのことが現実になっているのだ。もちろん、そのような認識を持ちたくない人びとは、「フクシマ」がそれほどの「災厄」であることを否認しようとしている。だが、そこに算定されている「コスト」が、すでにその否認を裏切っている。あるいは、人類そのものの破局が生じたわけではないが、今われわれはちょうど、「未来の喪」を演じるノアを前にした聴衆のような位置にいる。つまり、「未来の破局」がここにあるということを突きつけられている。実際、福島の浜通り原発付近の人びとは、地震やツナミの犠牲者を収容することもできず避難を余儀なくさせられて、ようやく二か月後に防護服姿で仮帰宅を許され、即席の祭壇を前に行方不明の人びとの仮供養の線香を上げなければならなかったのだ。その光景はほかでもない、われわれ自身の「未来の喪」でなくてなんだろうか。(同書解説「『大洪水』の翌日を生きる」西谷修、p148-149)