OKADA Atsushi, Sigmund Freud

フロイトのイタリア―旅・芸術・精神分析フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析岡田温司平凡社、2008年、ISBN:4582702791)を読み始める。
旅するフロイト。自らの鉄道恐怖をねじ伏せて、くり返したイタリアへの旅。そして葉書で、手紙で、イタリアの芸術を語るフロイト。自己分析の始まり。骨董品や発掘品の収集家であり考古学マニアとしてのフロイト。レオナルド論(「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出」)とミケランジェロ論(「ミケランジェロモーセ像」)は、ルネサンスの二大巨匠に対して、それぞれ「母」と「父」を鍵にしながら、アプローチした「あたかも美しい二連画のように対をなす」テクストなのだと岡田氏はいう。そしてモーゼがユダヤ人ではなくエジプト人であり、しかもそのモーゼはユダヤ人たちによって殺められたと主張するフロイトは、ユダヤ的なアイデンティティをむしろ脱構築しようとしていたのではないか、と。さてさて芸術と精神分析とは、はたしてどのような関係にあるのだろうか。

 治療および技法としての分析の仕事は、ここにおいて、はっきりと「構成(Konstruktionen)」(「構築」と訳されることもある)の問題として規定される。それは、「解釈(Deutungen)」とは区別されるもので、時間的というより論理的に「解釈」に先行する。「解釈」は、顕在から潜在へ、表層から深層へとさかのぼっていく。以前のフロイトでは、この時間的な遡及こそが、考古学的メタファーとして語られていた。だがいまや、歴史的で再現表層的な正確さはそれほど問題ではない。「構成」において問題となるのは、むしろ分析のシチュエーション(分析家と非分析者の「二つの部分のあいだの結びつき」)であり、その生産性である。「構成」が、過去の実際の出来事や心的空想に一致しているかどうかということ、それは、本質的な問題ではなくなるのだ。第一、一致や同一性を保証するものなど、実のところどこにもない。それゆえ「構成」は、真か偽かという図式的な二項対立をも超えている。言い換えるなら、分析技法における「構成」は、事実確認的というよりも、行為遂行的な言表となるのである。p208-209