HOSOMI Kazuyuki, Walter Benjamin

ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』細見和之岩波書店、2009年、ISBN:4000247107)を読み始める。懇切丁寧。少し文脈を広げて捉え直しをしている補論もいい。
たとえば第1章の補論(「言語という媒質に満たされたものとして世界を捉えるとき、現実と表現、それに批評をめぐって新たな視点が与えられると思われるのだ」)。

 だが、いっさいは言語という「媒質」のなかの出来事であるとすればどうなるのか。どのような「純粋」な作品も、この言語という媒質のなかで成立する。おそらくはほんとうの意味での「創造」はそこには存在しない。せいぜい芸術家に可能なのは、その媒質を変形させること、あるいは加工することだけである。だがそれが「芸術」である以上、その変形・加工は媒質を圧縮させること、媒質の密度を高めることとともにあるはずだ(あるいは場合によってはかぎりなく希薄にすること)。そして、本来の意味での抽象化とは、まさしくそのように言語という媒質の密度を高めることに存するだろう。そのとき、具象か抽象か、写実か反写実か、といった対立は、たんに媒質の密度の差へと相対化されてしまう。逆に言うと、どんなに抽象的な芸術もこの世界を満たしている言語を超え出ることはできないのだ。p29-30


第2章の補論(「ベンヤミンの考えている人間の言語の使命は、およそこの世の事物と出来事を「神」にたいして報告し証言する、そういうコンテクストに置かれているように思われるのだ」)。

 その際、「証言者の言語」は、もはや「神の創造を成就する」という創世記のコンテクストからは大きく逸脱せざるをえないかもしれない。けれども、私たちがおよそ「人間の言語」を語るかぎり、世界がこのようにあったということ、このようにあるということを、ある「絶対的なもの」にたいして報告し証言する、そのような「使命」が私たちには密かに課せられているのではないか。ベンヤミンの一見きわめて秘教的・神学的な言語論に寄り添いながら、おそらくそこまでは私たちは語ることができるだろう。そしてそのとき、詩や小説、絵画や彫刻などをことさら芸術の言語を「人間の言語」として特権視することも、もはや不要となるだろう。p64


ヘーゲル的な絶対者とは対蹠的な形で、かといって否定神学の枠組みには必ずしも収まらない形で、なお「絶対的なもの」を志向=思考する可能性が、かろうじて確保されているのではないだろうか」(第5章の補論)。第5章第五節の本文にはこうある。

 やはり大枠は、名前のそなえていたような絶対的な正しさ−−むしろ「正義」というべきかもしれない−−が失われたのちに、「判決」が体現していたような「絶対的」正しさが問題になっているのではないか。もしも十全な名前の領域、楽園状態のあり方こそを「正義」と呼ぶならば、まさしく「法」の領域はその「正義」がおわるところにはじまるのだ。そして、かつての「正義」の絶対性は、かろうじて「法」の否定的(消極的)な正しさのうちに、裏返しの形で継承されている。正義の領域を追われた者たちには、自分たちを罰するこの法の正しさが唯一の正当性と見える。しかし、ほんとうはこの「法」の彼方にこそ「正義」の領域が存在するのであって、その領域こそが回復されねばならないのだ。まさしく「正義」と「法」の境界領域に、「認識の木」は植えられているのである。p190-191


ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む―言葉と語りえぬもの