Rorty

  • 認識論から解釈学への転回を説くローティ。

互いに対立する理論は、それぞれが別々の全体のなかにふくまれており、両者のあいだには共通の地盤がない。したがってそれらを一連の規則によって合理的に一致させることができるという「共約可能性(commensurability)」はなく、「私たちにできることは、対立者にたいして解釈学的な態度をとることだけである。つまり、彼らのいう耳なれない、逆説的で、攻撃的な事柄が、彼らの語ろうとする残りの事柄と、つじつまがあっているかどうかをしめし、彼らの語ることを私たちの言いまわしで表現するとどうなるかをしめすことをこころみるだけである。……」(『哲学と自然の鏡』p424)p314-315

会話は、異質な諸個人が異質性をたもちながらおこなう営みであって、ひとつの結論、あるいはひとつの真理にたっすることを目的とするものではない。たとえば私たちは、旅の車中で偶然となりあわせた見知らぬ人と会話をかわす。そのとき私たちは、相手の生活環境や文化的背景を知らないために、相手の言葉の意味をよく理解できないかもしれない。しかし相手の言葉の不可思議さ、おなじ言葉にたいするおたがいの解釈のずれなどが、旅の会話を魅力的なものにする。ここには、おたがいに相手の人格をみとめあうゆるやかな社会的結合がある。しかも「相手の存在理由を根本的に否定するほど鋭い対立関係にある主体のあいだでも会話は可能であり、議論がすれちがいにおわったとしても、会話的営為そのものによって対立する主体の共生(conviviality)が実現されている。」(『共生の作法−会話としての正義−』p254)p317

ローティは、心を、自然あるいは実在をうつしだす鏡としてとらえる伝統的な哲学を否定して、それにかわるものとして「解釈学」への転回を説いたが、『プラグマティズムの帰結』では、そうした「鏡なき哲学」のもとにある文化は、ポスト「哲学」的文化(a post-Philosophical culture)とよばれる。ここでいうカッコつきの(原文では大文字ではじまる)「哲学」は、いうまでもなく、客観的な真理の把握、あるいはその基礎づけをめざす伝統的な哲学である。しかし真理にはこれこそ真理だというような普遍的で必然的な本来の性質はなく、ジェイムズのいうように各人にとって「信念として持つとよいもの」にすぎないから、「哲学」は成立しない。つまりポスト「哲学」的文化は、あらゆる種類の言語活動をあるがままにまかせる文化であって、そこでは哲学は、さまざまな言語活動を比較する研究、すなわち「文化批評」にきわめて似たものとなる(『哲学の脱構築−−プラグマティズムの帰結』p57)。もはや哲学は文学と区別されないばかりか、「科学も文学の一ジャンルとみなされる。別のいいかたをすれば、文学や芸術も、科学的探究とおなじ立場にたつ探究とみなされるのである。」(同書p62)p321

魚津郁夫プラグマティズムの思想』ちくま学芸文庫、2006年、ISBN:4480089624

プラグマティズムの思想 (ちくま学芸文庫)