Derrida, Rorty

  • 哲学と政治について。

レヴィナスのためにも私自身のためにも、責任の無限性を捨てれば、責任は存在しないと私は言いたい。(……)「決定した」とか「自分の責任は果たした」と誰かが言うのを耳にするたびに、私はそうかなあという気がしますが、それは責任や決定というものがあるかぎり、それを明確に決定することはできず、それについて確信したり安心したりすることはできないからです。もし誰かについて特によく行動したとしても、それが他の人にとっては損失になることはわかっており、ある国のためになることは他の国にとっては損失であり、ある家族にはいいことも他の家族にとっては損失になり、ある友人のためになっても他の友人たちや友人でない人々のためにはならないこともわかっています。これが責任のうちに刻みつけられている無限なのです。そうでなければ倫理的問題は存在しないでしょうし、決定ということも存在しないでしょう。決定不可能性が通り越したり乗り越えたりできない契機であるのはこのためです。(……)決定不可能性は決定に宿りつづけますし、決定は決定不可能性から縁を切ることがありません。他者への関係は閉じたものではなく、歴史が存在するのも人が政治行動を起こそうとするのもこのためなのです。(デリダ脱構築プラグマティズムについての考察」)p166-167

(寛容/不寛容とか明/暗のような)対比効果がなければ、こういう言葉のどちらを使っても対比の役をなさないだろう。これはあまり面白くもないことだが、こういう意味では、対比をなしている二重性のほうが対照的な言葉のどちらよりも「根本的」であり、「そのいずれをも可能にしている」とも言えるということには同意できる。しかし「決定不可能な根拠」という言葉を使って何が得られるのか見当もつかない。ロックは単語を個々の観念の名称として考えたが、それは間違いであったこと、そして単語の意味は言語のなかでの用法であり、単語に現在のような用法があるのは、それと対照的な他の言葉を使う可能性があるからであることを(ソシュールウィトゲンシュタインから)学んで、私はよかったと思っている。しかしこの改良された新しい言語哲学は、政治的討議の在り方や基準について考える際の助けにはならない。その際、意味の理論が重要でないのは、アプリオリな知識に関する理論と同様である。−−重要でないという点では、差延も根拠と同じであり、ソシュールデリダもカントやヘーゲルと変わりはない。(ローティ「エルネスト・ラクラウへの応答」)p139

 哲学的思索と対立するものとして政治のことを述べたとき、デューイは伝統的なやり方で行き詰まってしまうのでなく妥協を容易にする言葉で状況を言い直して、わずかでも改良の歩みを進める方法をアドバイスしている。レヴィナスの無限者へのパトスは急進的、革新的な政治とは馬が合うが、改良主義的、民主主義的な政治とは合わない−−しかし私は、この改良主義的、民主主義的な政治こそイギリスやフランスや合衆国のような豊かな立憲民主制に必要な唯一の政治だと考えている。
(……)しかし『友愛の政治』のようなテクストが政治思想に貢献するとは考えられない。思うに政治は実際的な、短期の改良や妥協の問題である、−−民主主義社会における妥協は、われわれが現前の形而上学を克服するとき使う言葉と比べれば、はるかにわかり易い言葉で提案し擁護しなければならない。政治思想の中心をなすものは、こういう改革がいかにして、どういう条件のもとで実現されうるかについての仮説を提示する試みである。急進思想やパトスは私的契機のためにとっておき、他の人々との問題の処理に当たっては、私は改良主義プラグマティズムをとりたい。(ローティ「脱構築プラグマティズムについての考察」)p31-32

シャンタル・ムフ脱構築プラグマティズム(青木隆嘉訳、法政大学出版局、2002年、ISBN:4588007416

脱構築とプラグマティズム―来たるべき民主主義 (叢書ウニベルシタス)