UCHIDA Tatsuru, Tocqueville, democracy

『街場のアメリカ論』内田樹NTT出版、2005年、ISBN:475714119X)を読み始める。

「過去のあらゆる精神的な遺産は、ここにおいて規範的なものにまで高められる。しかも孔子は、そのすべてを伝統の創始者としての周公に帰した。そして孔子自身は、自らを『述べて作らざる』ものと規定する。孔子は、そのような伝統の価値体系である『文』の、祖述者たることに甘んじようとする。しかし実は、このように無主体的な主体の自覚のうちにこそ、創造の秘密があったのである。伝統は運動をもつものでなければならない。運動は、原点への回帰を通じて、その歴史的可能性を確かめる。その回帰と創造の限りない運動の上に、伝統は生きてゆくのである」(白川静孔子伝』、中公文庫、2003年、p115-116)p102-103

アメリカにはしかしこれが要らない。国家の起源における「栄光」といったようなものを〈失われたあの頃には…〉というかたちで想像的に再構築しなくてもよい、つまりは「伝統」を遡及的に創造しなくてもすむ例外的な国家がアメリカなのだ、と内田氏はいう。
むろんそれはアメリカ人が、神話や伝説に無縁な人たちであるという意味ではない。むしろ彼らは歴史をもたない分だけ「物語」に弱い。そのために相応しくない「代表」を権力の座に据えてしまうことも少なくない。しかし、彼らの統治システムは、権力の集中を許さず、被統治者=多数による支配を徹底している。たとえ彼らがその愚かさから「間違い」を犯しても、それがもたらす災厄は最小限になるように、はじめから制度化されている、というのである。

 アメリカの有権者は表面的なポピュラリティに惑わされて適性を欠いた統治者を選んでしまう彼ら自身の「愚かさ」を勘定に入れてその統治システムを構築しているのです。アメリカの有権者たちは、統治者はしばしば「廉直でもないし、能力もない」ということを熟知しているのです。ですから、統治者についての問題は、いかにして賢明で有徳な政治家に統治を託すかではなく、いかにして愚鈍で無能な統治者が社会にもたらすネガティヴな効果を最小化するかに焦点化されているのです。p108-109

利益を増やすことよりも損害を少なくしようとすること。アメリカでは「改善」は問題にならない。なぜなら建国の当初においてすでにそれは「理想」であったから。最初から理想を実現させている国家にとっては、「今よりよい国になる」ことよりも「今より悪い国にならない」ことが課題であり、そのための制度の整備こそが肝要だったのだ、と。

街場のアメリカ論 NTT出版ライブラリーレゾナント017