ITO Kunitake, William James, a pluralistic universe

『ジェイムズの多元的宇宙論(伊藤邦武、岩波書店、2009年、ISBN:4000234609)を読み始める。

 ジェイムズがその理性批判にかんして徹頭徹尾固執するのは、個人の「経験」ということである。人間とは深い罪の意識や悪への鋭い意識によって絶望へと導かれることのある存在である。その絶望の淵において何らかの救いがあるとすれば、それは全面的な自己放棄という経験においてであろう−−ジェイムズの理論もこの事実を強調する点ではパスカルと全く同じである。理性に頼れない場面での算術的な「賭け」では、なおあまりにも不十分である。その先に必ずや自己放棄の経験が待っているはずである。実証的科学の精神はこの経験の事実を理解できないどころか、直視さえできないであろう。この主張においてジェイムズはパスカルのテーゼ一*1とテーゼ二*2の両方を認め、しかもその間に横たわる簡単には架橋できない深い断絶、ギャップも全面的に承認している。
 しかしながら、その絶体絶命の生の放棄からの「二度生まれ」の経験、再生というもっとも危険な経験において聞こえているのは、ジェイムズにとっては、もはや神のロゴスの声ではないのである。p32

 彼は一方で、宇宙を作り上げる素材を全面的に印象主義的な経験の断片とし、そこから立ち上がる「談話の宇宙」を千変万化する純粋経験タピストリーとして構想しながら、他方ではこの断片の集まりのなかに、より親密なものどうしが高度なものへと複合し、合体していく結晶化の過程と、それらの結晶体たる魂どうしの連帯的なシステム化の運動モーメントを求めようとする。これはまさしくこれまで見てきた、断片化しつつ体系化するという、論理的に矛盾した意識のシステムとしての多重人格のモデルを、心理学の領域から形而上学の主題へと拡大する過程にほかならない。それはジェイムズにおける心理学から哲学者への脱皮の過程である。
 しかしながら、心理学から形而上学への飛翔というこの道程には、『悲劇の誕生』をめぐるニーチェの厳しい自己鍛錬の道にも比すべき理論的格闘の軌跡が含まれている。というのも、その過程は一見したところ星々にも意識を認め、水と光を浴びる睡蓮にも自由な喜びの感覚の享受を認めるという、きわめて甘美な音楽的宇宙に通じているに見えながら、その底では、同一律を鉄則とする「論理的なもの」への全面的反旗の掲揚という、苦々しい選択への決断が敢行されているからである。この決断は「集合的なものと離散的なものの同一性」という形式的事態との長期にわたる哲学的格闘となって経験されながら、最終的には、無限性を否定された神の存在という逆説的な理説の主張へと進み、さらには、哲学的分析という知性の営み(多元的存在論)と神秘的直観の詩的描出(多元的神秘主義)という二つのアプローチの合一の承認という、不思議な地点に漂着するまでに至る。p141-142

 もちろん、ベルクソンの知性主義にたいして、ジェイムズは最大限の賛意を表明しつつ、一定の限界を設けてもいる。概念は、本来連続的でしかありえないはずの生の流れを分離することしかできない。知性は共感的な生が掴むことのできる一切の実在の内側に目をつぶって、その表面だけを計測する。知性は常識の理解とは逆で、精神的なもの理論的なものには触れることができず、ただ実用的な役割を果たすだけである。ジェイムズはこのようなベルクソン説が、哲学の新しい地平線を開く、「朝の息吹や小鳥の歌声」のようなものであるというが、一方では、知性を実用性のみに還元するというときの、理論と実用の関係については再考が必要であろうという。これは、同じく持続といい思考の流れという哲学においても、一方が共感と直観という形而上学の方法を強調するのにたいして、他方が観察と分析という心理学の方法を強調するという、方法的相違によるものであろう)。
 結局、彼にとって哲学の永遠の第一原則である同一性の論理の適用範囲を大幅に制限してでも、どうしても認めなければならないのは、世界には「一と多」とを同時に含む事象があるということであり、それを論理によって理解しようとしても矛盾に巻き込まれるだけだという事実である。一と多の併存、同と多の同時存在、それはわれわれの生のあらゆる局面で認めざるをえない根本的な事実である。そして、それはとりわけ異常心理学において多重人格の事実から浮かび上がってきた、一種の「社会」としての自我あるいは人格という事実が指し示すものである。あるいはまた、宗教経験の探究において「二度生まれ」、回心という事実によって確証される、「ある種の死が同時に別の生でもある」ということでもある。さらにいえば、われわれの有限の自我が大いなる自我と別個でありながらも同時につながっている、ということである。p225


ジェイムズの多元的宇宙論

*1:「理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない」

*2:「人間は、もし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほどに、必然的に気が違っているものである」