MORI Ichiro, Heidegger, KUKI, Arendt

死と誕生―ハイデガー・九鬼周造・アーレント『死と誕生―ハイデガー九鬼周造アーレント森一郎東京大学出版会、2008年、ISBN:4130160281)を読み始める。

  • 「記憶は反復の可能性の条件であり、将-来とは再-来なのである。」p234

 以上述べた時間構造は、原版においては、次のようにまとめられていた。「過去は記憶によって、ふたたび経験することの可能なものとして現在化される。すなわち、現在へと引き入れられ、これによって、最終的に「終わったこと(Vorbei)という性格を失う。過去は記憶において救われる(gerettet)のだが、それは、こうした現在化(Praesentieren)において過去が、未来に起こりうること(ein moegliches Zukuenftiges)となるからである」(LA,S.32[59])。改訂版では、この「過去を未来の可能性へと変形する」記憶の「現在化(present)」のはたらきを、「過去を元通りにする(undo)」とも言い換えている(LSA,p.48)。「元通りにする」とは、もちろんこの場合、過去に起こったことを「なかったことにする・取り消す」という意味ではない。むしろ「現在化」とは、過去から「終わった(Vorbei, bygone)」という性格を取り去る一方、その潜在力を引き出し、未来における反復可能性へと取り戻すことである。記憶の「ばくだいなたくわえ」は、われわれにこう告げる−−「かつてあったことは、ふたたびありうる(What has been can be again)」(LSA,p.48)。p233-234

  • 「誕生という始まりが、同じことの繰り返しをさえぎる「新しさ」をこの世にもたらす、という思想」p241

アウグスティヌスは、人間に先立って存在している世界と時間の始まりと、人間の始まりとを区別する。アウグスティヌスは前者の始まりをprincipiumと呼び、後者の始まりをinitiumと呼んでいる。始めに(in principio)という言葉は、宇宙の創造を指す−−「始めに神は天と地を造った」(創世記一・一)。他方、始まり(initium)は、「魂」の始まりを、すなわち、たんなる生き物のではなく人間の始まりを、指す。アウグスティヌスはこう書いている。「この始まりは、それ以前には決して存在しなかった。そのような始まりがあるようにと、人間は造られた。この人間以前には、誰もいなかった」。〔…〕人間とともに造られた始まりは、時間および宇宙全体が、何も新しいことは起こらずただ無目的に永遠回帰運動をひたすら繰り返すことを、妨げることとなった。それゆえある意味では、人間が造られたのは、新しさnovitasのためだった。おのれの「始まり」もしくは起源を知り、意識し、想起することができるからこそ、人間は、始める者として活動し、人類の物語を演じることができるのである。(LSA,p.55)

 始まりをもつ存在者は、終わりをもたねばならない。これは、神によって造られた世界全体が、生成したものであるかぎり、運動と変化とにさらされており、可動的・可変的であるのと同様である。生まれいづる者とは、死すべき者なのである。では、人間も含めて、生成したものはすべて消滅という元の鞘に収まるだけなのか。だが、自然の場合、その運動が循環を本性としており同じことの繰り返しが基本であるのと違って、人間だけは、始まりと終わりをもっていることを自覚する特異な存在者である。天使のような純粋知性体でも魂なき物質的自然でもない「記憶をもつ被造物」のみが、始まりと終わりによって規定されている。しかも、おのれの終わりを先取りしうるだけでなく、おのれの始まりへと遡ることのできる、始まりへの再帰的関わりの可能性を蔵している。p243

  • 約束

けだし約束というのは相手あっての物種である。われわれは一人では約束できないだけでなく、約束を再確認することもできない。約束をあらたにするには、その約束を共有する他なる者がともに現前していなければならない。つまりそれが始まりの反復であるかぎり、最初に始めたときの共同性もまた取り返されなければならないのである。ともに原点に立ち返るという共同行為によってこそ、約束の持続性は保証される。だが、約束の再確認がれっきとした共同-行為であり、複数性を条件とするかぎり、そこにも、意のままならなさが纏綿せざるをえない。自己自身の思いこみは打ち砕かれ、言い訳は却下され、猛省を強いられる。それは、約束が自分一人のものではなく、他者と共有するものだからである。とはいえ、複数性ゆえの不如意さを突きつけられるからこそ、約束は、そしてその保持もまた、自由な行為でありうる。それはちょうど、人は自分自身を赦すことはできないこと、すなわち、たんなる忘却によってでなく相手の自発的行為によってはじめて解放されること、このことと同じなのである。p279