KARUBE Tadashi, MARUYAMA Masao

丸山眞男リベラリストの肖像』苅部直岩波新書ISBN:4004310121)読む。

  • 人為的秩序としての政治社会

 つまり、近代以前から近代以後への学問の進展というものを、人間の主体性の確立という過程からみると、人間は自然に対して自分の主体性を確立した。次に政治社会というか、政治的な社会、あるいは国家、そういうものに対して人間が主体性を確立する。つまり、政治的な社会、あるいは国家というものは、それ自身、アン・ジッヒの権威をもっているものではなく、窮極においては人間生活というものを、より豊かにする手段であるというふうに考え、これが社会契約説となって現れて来る(座談会「新学問論」一九四七年、座1-29)。

ここで「近代」の特質をなすのは、「政治社会というものが自然的秩序から分離され、人為的な秩序として自覚されて来た」ということである。一面でこれは、丸山が戦後に引用した、十九世紀フランスの歴史家、J・エルネスト・ルナンの講演「国民(ナシオン)とは何か」(一八八二年)に見える言葉、「ナシオンの存在はいわば毎日繰り返される一般投票のようなものだ」に表わされる、「近代ナショナリズム」の論理と重なりあう[講2-23、集5-67〜68]p86-87

  • パートタイム政治家としての市民

 ところが丸山は、こうした「市民主義」の主張に、はげしい違和感を表明する。一九六一(昭和三十六)年、佐藤昇との対談「現代における革命の論理」では、「市民」という存在を実体として考えるのは不適切だとして、「市民主義」という言葉は使わないと宣言している[座4-149]。日ごろ、さまざまな職業に就いて生活する人々が、やむをえずその寸暇をさいて、自分の本来の目的ではない政治活動へとむかい、職場の内部をこえた「外への連帯性」にふみでるとき、意識のそうした側面を「市民的」と呼びうるだけなのである。
 これとは異なって、自分の生活のすべてを政治参加に捧げるような「完全市民像」に、丸山はむしろ、大衆社会における不安と孤立感を共同体との合一化で癒そうとする、ファシズム紙一重の危うさを指摘する[座4-142]。政治のプロフェッショナルではない、一般人の政治とのかかわりは、あくまでも「いやいやながら」のはたらきかけ、「パートタイム参加」にとどまるべきものなのである[集8-39、丸山二○○五]。久野にせよ松下にせよ、政治とは別に生活の基盤をもつ人々を「市民」と呼んでおり、ここで言う「完全市民」となることを推奨したのではない。だが丸山は、「市民」の名が一人歩きをすることで、地道な生活に根をおかない「市民運動」活動家−−プロ「市民」という逆説−−が続出することを憂慮したのだろう。
 こうして丸山は、政治というものは、「大勢の人間の毎日の散文的な要求」に応える、「本来的に保守的なもの」だと強調し、激しい行動によるラディカルな変革へのあこがれを、辛辣に批判するようになる[座5-141]。手記『春曙帖』では、英国の政治哲学者、マイケル・オークショットの言葉、「政治とは、恒久に完璧な社会を打立てる技術ではなくて、すでに存在しているある種の伝統的社会を研究してつぎにはどこへ行ったらよいのかを知る術である」を抜き書きしている[丸山一九九八a]。政治にかかわってゆくこと、そして政治を考えることは、もともとはきわめて地味で、「散文的」な営みなのである。p181-182

  • 水平次元にある他者

 さらに、現代の情報洪水の中で、目に見えない画一化の作用にさらされながら、みずからの「個」としての独自性を保ち、しかも欲望に押し流されずに、適切な「政治的判断」を働かせることは、いかにすれば可能になるのだろうか。そこで丸山がぎりぎりの期待をかけるのは、「他者感覚」にほかならない。……
 ……。
 では、そのイメージによる境界線をこえ、「外側」の住人の声にも耳を傾けられるようになるには、どうすればいいのか。だれもが自分の属する世界の外に出て、人類全体の共通空間で語り合えるという理想論は、すでに「逆さの世界」に生きていることを前提とする丸山のとるところではない。人間に残されている道は、あくまでも「内側」にとどまっていることを自覚しながら、外との「境界」の上に立ちつづけることである。−−「境界に住むことの意味は、内側の住人と「実感」を頒かち合いながら、しかも不断に「外」との交通を保ち、内側のイメージの自己累積による固定化をたえず積極的につきくずすことにある」[集9-43]
 こうして、「他者をあくまで他者としながら、しかも他者をその他在において理解する」ことを、丸山は呼びかける。現にある自分から理想の「主体」へと飛翔するのではなく、「内側」に身をおきながら、少しでも「外」へと視線をのばし、コミュニケーションを続けていくこと。この現実の自我による、「他者」にむけた水平次元での営みが、重要な鍵になる。p196-197


丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)