Noli Me Tangere (Touch Me Not)--Do Not Cling to Me

  • 拒みながら、触れる−−私に触れるな

 たとえば園丁に姿を変えたイエスは、幅広の帽子を被り、庭園を耕すシャベルをかついでいる。そのシャベルを描こうとするとき、画家の筆は何を考えていたであろうか。その画家の筆を描こうとするとき、哲学者はデューラーの描くシャベルが、昇る朝日と接していることを見逃さない。こうして複数の接触接触しながら連鎖してゆくたびに−−それはひとつの道具が他の道具を生み出してゆくのに似ている−−わたしたちはそれが最終的にどこに触れるのかを知りたくなるだろう。そしてわたしたちがうっすらと気づいているように、「最終的に」到達することはできない。

「愛と真理は押し戻して拒みながら、触れる。愛と真理は男ないし女を揺り動かし、彼、彼女を後ずさりさせる。……愛と真理がわたしたちに触れ、わたしたちを突き刺すのは、それが到達不可能であることによってである。」(ジャン=リュック・ナンシー『私に触れるな−−ノリ・メ・タンゲレ』荻野厚志訳、未来社、五二頁)

 哲学者は言葉をつかって、(その驚くべきパレットに触れるには、同時期に刊行された他の著作を手に取ることが求められる)、もう一枚の「ノリ・メ・タンゲレ」を描いたのだ。そのタッチは、歴史上の大画家におとらず精密である。そして画家たちとは違ったやり方で、このモチーフに新しい色彩を加えている。たとえば著者は、「ノリ・メ・タンゲレ」はただ「わたしに触れるな」と言っているよりも、「わたしに触れようと欲するな」と字義通りに解釈することを提案する。ある行為をするな、というだけでなく、そもそもそれを考えるな、もしそうだとしても、それをすぐに忘れなさい、といっているのだと言うことである。
 本書は魅力的な通路をいくつも含んでいるが、わたしはこの部分にこそ、ナンシーの真骨頂があるように感じた。絵画論として、あるいはイメージ論として書かれていることは確かであるが、ここでの「わたしに触れるな」という言葉の解釈は、この命令形について考えることを提案し、最終的に「抱擁の場面での不和」が問題になる。この命令を発する者が暴力を欲する者である可能性を排除していないのである。(港千尋『書物の変 グーグルベルグの時代』、せりか書房、p105-107)

  • 遇う所の地と相い見るの時を記し−−未死會應相見在

元和十四年(八一九)、三年あまりに及んだ江州司馬から忠州刺史(州の長官)へと量移(罪を軽減されて他所に移る)された白楽天が長江をさかのぼっていくと、たまたま通州司馬からカク州(河南省廬氏県・霊宝県の南、洛水の上流)長史(州の属官)に量移されて長江を下っていた元[禾眞](げんしん)と三月十一日、峡州(湖北省宜昌県西北)でばったり出会ったのだ。四年前、元和十年に元[禾眞]が通州へ赴くのを長安で送別して以来の再会である。二人は限られた行程のなかで三泊をともに過ごし、再び長江の上下に別れた。この時、白楽天は七言十七韻、つまり三十四句の詩を元[禾眞]に手向けた。その最後の四句に言う、

  君還秦地辭炎徼  君は秦地に還りて炎徼を辞す
  我向忠州入瘴煙  我は忠州に向かいて瘴煙に入る
  未死會應相見在  未だ死せざれば会(かなら)ず応(まさ)に相い見るべし
  又知何地復何年  又た知らん何れの地 復た何れの年になるかを

(……)
 この詩の題の末尾にはこうも言う、

  ……因りて七言十七韻を賦して以て贈り、且つ遇う所の地と相い見るの時を記して、他年の会話の張本と為さんと欲するなり。

 今日の出会いの場所、時を記録しておいて、いつか次に会った時の思い出話のタネにしよう−−ここには再会の期の到来を信じる白楽天の前向きな態度がよくあらわれている。運よく出会えてもたちまちのうちに別れねばならない。その別れに際してこれが最後かと嘆くのではなく、こんな機会がまたあるかも知れないと考えるのである。与えられた苦境に対して、悲観に沈む情感をうたうよりも、現実をしなやかに受け止めながら希望に向かうのが白楽天の心性であった。さらに踏み込んで言えば、このような偶然の起こる人生を白楽天は楽しんでいるかのようにさえ思われてくる。少なくとも、思うにまかせぬ二人の人生行路は別離に満ちていると悲しみに沈むことはなく、こんな思いがけない出会いもあるものなのだと人生を楽観的に捉える。そして実際、二人はこののちも都で再会を果たすことになった。(川合康三『白楽天−−官と隠のはざまで』、岩波新書、p161-162)

  • 恐るべきかたいパン−−龍を思う虎

 私が同君の顔を見たのはわずかに三度か四度くらいのものである。そのうちの一度は夏目先生のたしか七回忌に雑司が谷の墓地でである。大概洋服でなければ羽織袴を着た人たちのなかで芥川君の着流しの姿が目に立った。ひどく憔悴したつやのない青白い顔色をしてほかの人の群れから少し離れて立っていた姿が思い出される。くちびるの色が著しくあかく見えた事、長い髪を手でなで上げるかたちがこの人の印象をいっそう憂鬱にした事などが目に浮かんで来る。参拝を終わってみんなが帰る時にK君が「どうだ、あとで来ないか」と言った時に黙ってただ軽く目礼をしただけであったと覚えている。そんな事まで覚えているのは、その日の同君が私の頭に何か特別な印象を刻みつけたためかと思われる。
 もう一度はK社の主催でA派の歌人の歌集刊行記念会といったようなものを芝公園のレストーランで開いた時の事である。食卓で幹事の指名かなんかでテーブルスピーチがあった。正客の歌人の右翼にすわっていた芥川君が沈痛な顔をして立ち上がって、自分は何もここで述べるような感想を持ち合わさない。ただもししいて何か感じた事を述べよとならば、それは消化器の弱い自分にとって今夜の食卓に出されたパンが恐るべきかたいパンであったという事であると言って席についた。その夜の芥川君には先年雑司が谷の墓地で見た時のような心弱さといったようなものは見えなかった。若々しさと鋭さに緊張した顔容と話しぶりであった。しかし何かしら重い病気がこの人の肉体を内側から虫ばんでいる事はだれの目にもあまりに明白であった。「恐るべきかたいパン」、この言葉が今この追憶を書いている私の耳の底にありあり響いて聞こえる。そしてそれが今度の不慮の死に関する一つの暗示ででもあったような気がしてならない。(「芥川竜之介君」(「備忘録」)より、『寺田寅彦随筆集 第二巻』小宮豊隆編、岩波文庫、p147-148)


書物の変―グーグルベルグの時代
白楽天――官と隠のはざまで (岩波新書)
寺田寅彦随筆集 (第2巻) (岩波文庫)