Santouka, KOIKE Masayo, SUZUKI Risaku

ぽつとりとポットン、あるいは紅から白へ

ある本をぱらぱらとめくっていると、山頭火の句が引いてあって、そういえば家のシクラメンが一輪だけ花を咲かせているのに気がついたのは、いつのことだったろうか、雪がけっこう積もった日の次の朝だから、2月10日にちがいなくて、かぶった雪の間から、ちらりと花弁を覗かせて、もっと以前から咲いていたのかもしれなかったが、MSKが同僚にもらったとかで、花がなくなってもしばらくは職場に置いてあったのを、水やりを忘れて枯らせてしまっては大変と、夏が近づいた頃に、家に持ち帰ってきた鉢で、デッキの隅には置いたものの、とくに世話をするでもなく、気がついたときに水をやる程度、冬場に入ってからは、それさえ気にもとめていなかったというわけだが、雪の隙間から覗く薄紅はほんのりと、淡いながらに、それでも真っ白との間でしか見せない、鮮やかさは見せていて、思わず、雪を乗せたままの鉢を持ちあげ、そっと花の匂いを嗅いでみると、なんというのか、中学2年生とでもいうしかない香りがして、14歳になるまで住んでいた、祖父母の家の庭に、小振りな椿の木があったことを思い出し、かぶった雪に似合うといえば、あの椿の花こそがそうだった、あの椿の木は、別の土地に平屋で建て直された祖父母の家の、今度はぐんと大きく広がった庭のすみに移されたのだった、異性とのはじめての出会いの年だったから、

笠にぽつとり椿だつた

などなど、思い出が次から次へと、ぽっとりぽっとり落ちてくるので、話もそれに連れてぐっと下がってしまうのだが、祖父母の家のトイレは屋外にあったポットン便所で、いつからそんな呼び方があったのか、はっきり覚えてはいないのだが、誰かから聞いたそのネーミングのうまさには今更ながら驚くほかなく、一度で憶えたその名のトイレも、しかし跨っているときにはただの便所で、百貨店やホテルでこそ水洗トイレを使っていたものの、こっちのほうが歴とした便所であって、不便を感じたことは一度もなかったが、大変だといえば大変だったのは、ぽつとりにはなくても、ポットンにはありそうな、はね返りというか、お釣りがホラ(ホラって!)、やっぱりあったので、落としても気を緩めることが許されない、いや、落としたあとこそ気が抜けない緊張の瞬間となるので、ハーフ・ストロークで止めるスクワットを断続的に行う、というようなこともけっして稀ではなかった、というのもご案内のとおりで、下方からいきなり吹き抜けて、尻を割く寒風についてもご承知のはず、たしかに、冬の季節には公衆トイレなどで西洋式便器の冷たい便座にむきだしの尻をおろすのはずいぶん勇気が要るもの、ではあるけれども、それでもその時機はといえば、いつでも己れの意のままであって、忽然、ことわりなくやってくる突風に対しては、準備も心構えもありようがなく、縮みあがるという言葉を、おふくろさんと呼ばれたりもする下半身の、男にしかないあの部分を覗き込んで目の当たりにする、というような次第とあいなるので、それに比べたら、

あけがた
長い長い静かな放尿の音をたてていると
世界に
私とこの音しかないような気がしてくる
(「あけがたの短い詩」)

というトイレなどは、西洋式のそれにちがいなく、事実この引用部分の直前にアメリカ、サンタ・フェのバスルームでと書いてあるのだが、にっぽんのポットンのそれならば、小用でも水だけがたてるジョーとかジョボジョといった音はしなくて、固形物やまだ溶けきっていない紙の束などにぶつかって、混ざったように濁った音が、ドドドとかボドドドくらいに聞こえてくる、そのポットンで、いつ頃から雪のように白いあの落とし紙が使われだしたのか、まだティッシュのようなものがなく、それを折りたたんで鼻紙として学校にも持って行けた、それこそ淡雪のような柔らかさ、絹のような滑らかさ、そうそうあれはチリシとかチリガミとも呼んでいたけれど、白という色による征服、統一をいうならば、それよりはたいていの便器が、白い色になったということのほうが、きっと先のことなのかも知れなくて、じっさい江戸時代には、いやそれよりもっと以前から、和式の便器には美しい彩色があって*1、という方向に行くのではなく、今日はひとつ写真集でも繙いてみよう、うんこれだ、白という色、光を吸収する黒にたいして、白はあらゆる光を反射してしまう色だから、写真家は、表面を強く意識させるこの色を回避するか、それともそれに過剰に意味を注ぎ込むか、そのいずれかの道を選ぶ以外にない、と竹内万里子は書いていて、

鈴木理策の白は、そのどちらの道もとらない。辻褄を合わせようとするどころか、写真の限界を示す白の在り処を、なんのてらいもなく見せてしまう。那智の滝の水しぶきの白、降り積もる雪の白、目の前にせり出した桜の白。それらの写真を前にすると、熊野、雪、桜というそれぞれ強い象徴性をはらんだ被写体が、見事なイリュージョンとして立ち上がると同時に、しかしひとつのメディウムにすぎないということを思い知らされる。私たちが見ているのは、その境界なのだ。境界としての白。ただしその境界は、つねに眼のなかでふるえている。(「写真の白、鈴木理策の白」『UP』421、2007/11号)

そして、世界に素手で近づこうとする写真家の軌跡、その結果としての「白」がここにある、と写真評論家はいうのである。

鈴木理策 熊野、雪、桜染付古便器の粋―清らかさの考察 (INAXミュージアムブック)小池昌代詩集 (現代詩文庫)屋上への誘惑 (光文社文庫)