NO COUNTRY

「ケダモノ」ののように生き「虫けら」のように死ぬ。映画はそんな命の本質を明け透けに描くかにみえる。原作は読んでいないのだが、ノーカントリーに「for old men」がついている原題のほうからいえば、そう見るのが当たっているのだろう。しかし私がこの映画に見たのは、いや、見たいのは、といったほうが正確かもしれないのだが、それは「個人」の姿である。ほとんどモンスターになりかけてはいるけれども、やはりそれは私的でない領域における個人としての、あり得べき振る舞いである。一種のセルフ・メイド・マン。だれにも頼らない、超越的な何ものにもおのれを預けない、自分ひとりで引き受ける、むきだしの生、この命*1
もちろん、そうした「個人」の姿に、理想や希望をまで幻視しようとするのは、容易なことではない。彼らの命を取り巻く現実の、なんたる酷さであることか。ドラッグストアで治療薬を手に入れるために取られる最適な?手段を見よ。そして重傷を負っても国境を越えなければ入院さえできないことを。これらは、彼らが犯罪者であるという理由から導かれる結果として、つまりはごく一般的なアメリカ人の現実とは無縁な、特殊な事例として、画面に映し出されているのだろうか。いや、けっしてそうではないだろう。ヴェトナム帰還兵の命を脅かすのは、内地の狂人である。しかし兵士を、殺人機械を、作り上げたのは、また見捨ててしまったのは、「彼ら」の土地なのか民なのか国なのか。ノーカントリーは特殊な国の特殊な時代の特殊な問題を描いている。にもかかわらず、それは同時に「我ら」の問題でもある。
何はともあれ、まずは生き延びること。しかし気になるのは、よくも考えずに相手の勢いに気圧されて「選択」をしてしまい、結果オーライで生き延びる男もいれば、たかだか同じ人間にすぎない者に強いられた生死を賭さねばならない「選択」を理不尽なものとして正しく拒みながらも、結果としては殺されてしまう女がいることだ。人間の「選ぶ」という行為と巡り逢わせることになる「運」とは、因果の関係にはなく、まったく別の次元のもののようなのだ。それでもひとが自ら「選ぶ」ことに意味はある、というのだろうか。結果はどうあれ、「選択しない」ことさえ、ひとつの「選び」である、賭けることこそが生きることなのだ、と。だとしても、もはやノーカントリーから始めるしかないのだとすれば、いったい個人はどこに向けてその第一歩を踏み出せばよいのだろうか。

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*1:「剥き出しの生」などというと、「個人」というよりは「個体」というものに近いような気もするのだが、いずれにせよ、この映画を見ていると、社会という人間どもの生命の共同体における複雑で多様な関係性のなかから、「身体」をもった「個」が、あるいは「生命」としての「主体」とでもいうべきものが、いままさに切り出されようとしている、そんな瞬間を見る思いがするのである