Rorty, Whitman, Dewey

アメリカ未完のプロジェクト―20世紀アメリカにおける左翼思想

  • 進歩は、前もって特定できるものに次第に接近していくことではなく、より多くの問題を解決することである。進歩は、私たちが目標に近づいた増加量よりも、過去の私たちを改善した程度によって測られる。

論理や説教は決して人の心を納得させることはない、
夜のしめった空気はぼくの魂の奥にますます深く入り込む。
ただあらゆる男と女に自分を証明してみせるものだけが魂の奥に深く入り込んでくる、
ただ誰も否定しないものだけが魂の奥に深く入り込んでくるのだ。(Whitman, Leaves of Grass

 ホイットマンの詩のこれらの数節は、プラグマティズムを新奇なものにも悪名高いものにもした信条を予示していると読むことができる。つまりその信条とは、人間の手による創作物でないもの、人間を支配する権威を持つものという意味での〈真理〉の存在を拒絶することである。……。
 ……。デューイは、「フォイエルバッハに関する一一のテーゼ」のマルクスのように、全面的に実践の優位という立場を取っていた。デューイのプラグマティズムは、「いかにしてアメリカ合衆国は哲学的に正当化されうるのか」というよりも、「哲学はアメリカ合衆国のために何ができるのか」という問いに対する答えである。……。デューイが望んでいたのは、アメリカが高所から−−不動で永遠の本源から−−正当化を行うという希望を捨て去る勇気を持つ最初の国民国家になるということであった。そのような国は、哲学と詩の両方を自己表現の様式として扱うようになるのであって、国に自信を取り戻させてくれるよう哲学者に求めることなどないのである。(アメリカ 未完のプロジェクト』、小沢照彦訳、晃洋書房、2000年、ISBN:4771011990、p29-30)

  • 「罪」の観念を重大視する人々は、子どもっぽく、素朴で危険である。自己嫌悪などというものは、贅沢品にすぎない。

 しかし、ここである人が自分がすることなど想像もできなかったことを実際にしてしまい、なお生きていることに気づくと仮定してみよう。その時に、その人が選択できるのは、自殺するか、底なしの自己嫌悪に満ちた人生を送るか、あのようなことを決して二度としないように生きようとするかである。デューイは三番目の選択をするように勧める。デューイが考えているのは、自殺したり、自分自身の過去を恐れている傍観者になるよりも、行為者であり続けるべきであるということである。デューイは自己嫌悪を−−個人であれ国民であれ−−行為者たるものが持つ余裕などない贅沢品と見なしている。デューイは、悲劇の起こり得ること、そして実際に悲劇の起こる恐れのあることをよく知っていた。だが、彼は悲劇を説明するのに罪の観念を使用することをまったく拒絶した。(同書、p35-36)

 一般に、方法、科学、学問分野、専門職などがもたらす効果は、インスピレーションを与える価値を生み出さない。インスピレーションを与える価値は、専門家らしくない予言者やデミウルゴスの個々の筆づかいによって生み出される。例えば、あるテキストをある文化創造のメカニズムの産物と見なしているまさにその時に、そのテキストの内にインスピレーションを与える価値を見いだすことはできない。このように、ある作品をある文化創造のメカニズムの産物と見なすことは、理解をもたらしても希望を与えず、知識をもたらしても自己変革をもたらさない。それというのも、知識とは、ある作品をよく知っている文脈の中に当てはめること−−その作品を既知の事柄に関係づけること−−だからである。(同書、p145)

私たちは、文学作品を正当と認めるさまざまな規範(canons)が一時的なものであり、さまざまな試金石が取り替え可能なものであることを快く認めるべきである。しかし、だからといって私たちは偉大さの観念を放棄すべきだということにはならない。偉大な文学作品は、それが偉大であるので多くの読者にインスピレーションを与えてきたと見なされるべきでなく、多くの読者にインスピレーションを与えてきたので偉大であると見なされるべきである。(同書、p149)