TAJIMA Masaki, Spinoza

スピノザという暗号』田島正樹青弓社、2001年、ISBN:4787210319)を再読する。この本を再読することができたのは、『スピノザ入門』(ピエール=フランソワ・モロー)や『スピノザの世界−神あるいは自然』(上野修)のおかげである。再読した今は、ドゥルーズスピノザ論も読み直す気になっている。
田島氏は論じる対象に応じたスタイルをとる。ニーチェ(『ニーチェの遠近法』)ならば上演というかたちで。スピノザなら徹底して内在的に問うかたちで。氏はスピノザのやや「荒削り」な部分を、他のスピノザ自身の言葉で補いつつ、ていねいに解読していく。そしてスピノザにしっかり向かい合いながら(その歴史的背景をきちんとふまえた解釈をするというだけでなく)、まさに現代の哲学問題としてスピノザを読み解いていくのである。
正直、再読してなお難しくて分からないところもある。しかし先のエントリーでとりあげた『読む哲学事典』で扱われる問題のほとんどは、このときまでにすでに「問題」として受けとめられていたことは疑いない。どのように解かれる(示される)ことになるかまでは決まっていなかったとしても。
さて、では反実在論的な立場から倫理を見るとどうなるか。三箇所を引く。

 アリストテレスは、運動の始まりは存在しないと言った。運動がみずからの意味を現す運動として認知されるとき、それはすでに始まってしまっている運動、すでに実現しつつある現象と見なされざるをえないからである。政治的活動においては、とりわけこのことが言えよう。何もないところに理想を実現することなど、できるものではない。われわれの行動は、すでに存在しているものを深く洞察して、それを完成へともたらすだけである。意味の製作モデルが、意味を製作過程に先んじて与えられるものとするのに対して、アリストテレスによると意味は、意味を実現していく現象という運動のなかで成熟し、結果のなかにはじめてありありと表現されるものなのである。意味の実現に与る運動も、あらかじめその帰趨を完全に予知するのではない。むしろ、その状況に示された兆候をとらえ、半歩ばかりそれに先んずるにすぎない。認識と運動の間のこのような対話とフィードバックをくりかえすことによって、政治的活動は当初誰も予想していなかった結果へと導かれるのである。p247

 全体を鳥瞰しうるかのように考えて、自分の生を超越して立てられた理想から、社会や現実の欠陥を指摘してそれを批判するような認識や実践の不十分性を示すことが、スピノザの課題であった。理性を、自然や感情と対立させるのではなく、そのうまい配列によって受動から能動への転換、あるいは感情からの理性の発生をなしうると考えたスピノザは、あらかじめ密かに設定しておいたアプリオリな原理から、まるで手品師が鳩を出すように全体を演繹しようとしたのではなく(この点、彼の「幾何学的記述」に惑わされてはならない)、むしろ逆に、そのような観念論的原理を設定してわれわれの自由にあらかじめ規範的制限を課そうとする一切の議論を、失効させようとするのである。スピノザの神が、なんら道徳的価値や規範を押しつけるものではなく、ただ能動性と活力と自己保存の原理でしかなく、それだけがリアルなものであるとされたのは、このためである。道徳的諸価値は、芸術的価値がそうであるように、未だ尽くされてはいない。それはわれわれの変化する社交生活のなかで新たに生まれ、淘汰され、また鍛えられ洗練されるべく、どこまでも開かれているのである。それは、新たに法が生まれ、またゲームが生まれるようなものである。p252

 かくて、過去の他者の言語使用の実例への服従によって自己へと生成した主体は、今度は、生まれつつある意味に対する責任を負うことができるようになる。その「意味」は、未だ完全には姿を現してはおらず、それゆえこの主体の行動に意味が、それへの献身として理解されるためには、この意味の完全な出現を待たねばならないようなものである。このような形で、主体は創造的なことをなす余地があり、ここにスピノザの閉じた実在論的世界にはなかった自由の余地があるだろう。それは主体を完成されたものと想定された実在論的な秩序という「永遠の相の下に」見るのではなく、主体とともに生成しつつある意味と合理性の現在という相の下で見るとき、われわれの眼前に広がる光景である。p260-261


スピノザという暗号 (クリティーク叢書)