TAJIMA Masaki, logic, ethics

哲学史のよみ方』田島正樹ちくま新書、1998年、ISBN:4480057439)を再読する。「どこから見始めてもよく、同じところへ別ルートからくり返し立ち寄ることもできる。どこにも特権的始源もなければ、目標(テロス)もない」」そんな「街の観光ガイドのような哲学史」。それは「さまざまの観点の冒険の場としての」哲学史でもある。
スピノザにならって」と述べられているところなど、少しは玩味できるようになった気がしたが、はたして「精神の自由」についてほんとうに学ぶことができただろうか。いずれにせよ「自由人」として生きることの愉しさ(と同時にその難しさ)を痛感できる本ではある。以前別のところにも引用したことがある同じ箇所をやはり引いておこう。

 そもそも論理形式とは何か、端的に定義することはむずかしい。また、すべての論理形式を数え上げたり、列挙することもできない。いくつかの呈示された事例の中に、そのつどふさわしい論理形式を見て取る、というのが最良の方法であろう。実際アリストテレスは、読者に〈質料−形相〉といった論理形式をわからせようとする場合、類比というものを多用するだけである。
 哲学的難問には、論理形式をめぐる混乱に由来するものが多い。たとえば、意図と意図的行為のように、部分と全体の関係であるものを、原因と結果の関係に取り違えたり、心−身問題についてみたように、シニフィアン(身体)とシニフィエ(心)の関係を、原因と結果の関係と取り違えたりする誤解は、論理形式の取り違えによるものと言えよう。
 また、「存在の意味」とか「因果性の意味」を問い求めることが、哲学的な難問となっているのも、それらが一般に意味や用法を明確に定義できる概念とは違って、論理形式そのものであるからである。われわれが、これらの意味があまりに漠として捉えがたいと感じるのも当然である。こんな場合、無理にでも答えを出そうとすると、たいてい手っとり早く思い浮かべられた特定の存在や特定の因果に飛びつくことになり、これらをめぐる問題位相の根本性格が見失われてしまうのである。以下に見るように、「存在」や「因果性」は、それ自体それぞれ論理形式のひとつだからである。(p148-149)

 われわれがしばしば他者としての存在を否認し、自閉しようとするのはなぜか。それは過度に己れの存在を気づかい、不安に駆られながら今の己れの存在を確かなものとして確保しようとするからであろう。それはとりわけ、死への不安の中に揺曳している自己の存在を自覚することに由来する。しかしこのような自己の存在への気遣い(Sorge)は、キリスト教的伝統に照らせば、けっして真の自己認識にも、真の存在認識にもつながらない。キリスト教的伝統によれば、真の自己認識は、つねに他者の存在を経由したものであるほかはなく、存在の真の意味は他者として与えられるものだからである。神との関係、隣人との関係における愛と信頼の中に見出されないような自己は、真の自己ではないのである。この意味で「己れを得ようとする者は己れを失い、己れを失う者は己れを得る」のである。
 また、自己の存在への気遣いから存在の意味が啓示されるわけでもない。ギリシア的伝統にあっては、存在とは永遠というにほぼ等しく、そのさい、とりわけ天体や生物種が反復回帰するという形で永続することが念頭におかれていた。移ろいゆくものは、しかと存在しているとは言えない。それはいわば存在の影なのである。それに対して、キリスト教では「存在する」とは、日々新たに創造されることを意味し、他者性と異質性の中へと、躍り出るような形で創造されること(ex-istence )と見なされているのである。したがって与えられた存在に甘んじ、それを汲々として維持するようなことは、虚しい自己に固執する罪でしかなく、もはや半ば無へ向かって崩落しつつあることでしかないのである。(p207-208)

哲学史のよみ方 (ちくま新書)