Azar Nafisi, Reading Lolita in Tehran

テヘランでロリータを読むテヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー、市川恵理訳、白水社、2006年、ISBN:4560027544)を読む。邦訳がでたときから、表紙の写真が気になっていたこともあって、読みたいと思っていたのだが、ひょんなことからまだ読んでもいないのに他人に推薦してしまい、それで今回はじめて読むことができた。
イスラーム革命後のテヘラン、超保守的な宗教指導者の圧政のもとで、重ねてきた年齢も経験もさまざまな女性たちが、大学をやめたナフィーシー先生の自宅に集まって英文学を読む。書かれた時代も地域も使用する言語も異なる小説を、いま自分が置かれている状況と照らし合わせながら、彼女たちはそれぞれの立場で読んでいく。
それは演奏でいえば自ずとソロになりがちであり、また明らかに外からの圧力によってソロを余儀なくされることも多いのだが、この本の魅力は、やはりそれら各々の調べが絶妙のアンサンブルとして奏でられ、一曲の音楽へと生まれ出ようとする瞬間を逃すことなく、それを光のもとに−−たとえ絶望と表裏一体のものとしてであれ−−希望として描き留めていることであろう。
この本は、その全体が近代化に向かいつつある世界の趨勢と無縁ではあり得ないイスラム社会において、女性たちが自らの自我と人権に目覚めて苦悩・苦闘する姿を活写したルポルタージュであり、かつ、フィクションを読むことの意義を知らしめ、それがもつ力の大きさを如実に感じさせてくれるもうひとつのフィクションであり、それ自身魅力的な英文学(小説)への入門書でもある。

 ギャツビーは自分の人生のみすぼらしさに耐えられません。彼には「あくまでも希望を捨てない非凡な才能、ロマンティックな心構え」があり、「人生が約束するものに対する高度な感受性」があります。世界を変えることはできないから、自分の夢にしたがって自分自身をつくりなおすのです。ニックの説明を見てみましょう。「ロング・アイランドのウェスト・エッグに住むジェイ・ギャツビーなる人物は、彼が理想とする自己の観念から生まれた。彼は神の子であった−−この言葉に何らかの意味があるとすれば、まさにこのような場合をいうのだろう。だから彼は父なる神の御業に、途方もなく大きな、けばけばしく通俗的な美を提供する仕事に取り組まなくてはならない。そこで彼はいかにも十七歳の少年が思い描きそうな、ジェイ・ギャツビーという人間をつくりあげた。そしてその観念に最後まで忠実だった」
 ギャツビーが忠誠を尽くしたのは、こうしてつくり変えた自分に対してであり、その理想の実現をデイジーの声の中に見たのです。彼は夢見た自己の可能性に、桟橋の突端に輝く緑の灯に忠実でありつづけたのであって、富と繁栄のさもしい夢に忠実であったわけではありません。こうして「途方もない幻想」が生まれ、彼はそれに人生を捧げます。フィッツジェラルドの言葉を借りれば、「どれほどの情熱も新鮮な印象も、男が心に抱く幻想にはかなわない」のです。
 ギャツビーのデイジーへの忠誠心は、彼の思い描いた自己への忠誠心と結びついています。「彼はいろいろと過去の話をした。それを聞いて僕は、彼がデイジーを愛するようになった何かを、ひょっとすると自分に関する何らかの観念を、とりもどそうとしているのではないかと思った。彼の人生はそのとき以来混乱し、狂ってしまったが、もう一度はじまりにもどり、すべてをゆっくりとやりなおせるなら、それが何かつきとめられるだろう……」
 しかしながら、その夢は依然として不滅で、ギャツビーと彼個人の人生を超えて広がっています。広い意味では、その夢はあの都市に、すなわちニューヨークそのものに、そしてアメリカ東部にあり、かつては無数の移民の夢、現在では新たな人生と刺激を求めてやってくる中西部人のメッカとなった港に宿っているのです。ニューヨークは魅力的な夢と中途半端な望みをかきたてる一方で、現実には、トムとマートルの関係のような陳腐な情事の隠れ場所になっています。ニューヨークは、デイジーのように、将来の望みを、幻影を漂わせますが、その幻影は手に入れたとたんに堕落し、腐敗してしまいます。ギャツビーの夢とアメリカの夢をつなぐのがこの街なのです。彼の夢はお金ではなく、自らの将来の姿です。ここで語られているのは、物質主義の国ではなく理想主義の国としてのアメリカ、富を夢の回復の手段に変えた国としてのアメリカなのです。ここには卑俗な要素は何もありません。あるいは、卑俗さと夢とがすっかり混ざりあい、もはや区別できなくなっています。結局のところ、最高の理想ともっとも卑しい現実はつれだってあらわれるのです。p199-200

「夢に憧れる心、その非現実性こそが夢を純粋にする」「私たちとフィッツジェラルドに共通するのは、私たちに取り憑き、現実を支配するに至ったこの夢、この恐ろしくも美しい、実現不可能な夢、実現のためならばどれほどの暴力を使ってもかまわないような夢である」と指摘するナフィーシ−先生は、『グレート・ギャツビー』というフィクションと自分の現実とを区別することができないミスター・ニヤージーと呼ばれる学生−−彼は「純粋な善意から」、先生に「イランの学生にはアメリカの不道徳と闘うよう教えるべきだ」と真剣に進言してくるような、つまりは厄介な学生なのですが−−に対して次のようにいいます。
「夢というのは完全な理想で、それ自体で完璧なものなのよ。絶えず移り変わる不完全な現実に、どうしてそれを押しつけるようなまねをするの? そういう人間は、ハンバートになって自分の夢の対象を踏みにじるか、ギャツビーになってみずから破滅することになるでしょう」。
文学の力、そして文学の領分。そういうことなのかもしれない。