NAKAI Hisao, Valéry, MINATO Chihiro, Lévi-Strauss

日時計の影』中井久夫みすず書房、2008年、ISBN:4622074370)を読み始める。第七エッセイ。どこから読んでもよいだろう。一度や二度読み通したくらいで読み切ってしまうような中身の薄い文章はひとつもないので、読みたいと思ったところからあちらこちらと安心して読み進める(そうはいいつつ、読み通してしまうのが、やはり惜しい気がする本なのだ)。

 なるほど、草稿の証拠は、最初は蛇の詩であったという仮説にことごとく反する。それに『若きパルク』の蛇にはパルクが不覚にも噛まれるが、この詩では蜜蜂に「刺せ」と積極的にいう。積極的に「噛め」と蛇に告げたら直ちに「後は暗黒」(ハムレット)だから、詩想の段階で蛇はすでに蜜蜂に変わり、蜂の唸りにも似たすばらしい脚韻を得て、詩「蜜蜂」が生まれたのではないかと私は空想する。それにもかかわらず、ヴァレリー詩全体のコンテクストからすれば、この詩にはヴァレリーが蜜蜂に求める「素早い拷問」「生きのよい明確な悪」が息づいている。いや、それは蜜蜂より蛇に近い。『魅惑』の中で蜜蜂の製作は特に遅い。一九一九年である。続いて同年に生まれるのは「眠る女」である。女は自足して眠っている。こういう「眠れる自足」は他の詩にはない。p317(「ヴァレリーと私」より)


「失われた酒に酔う」反復強迫を生きるヴァレリーにとって、夫人ジャニーこそがほんとうのミューズであったのでは、と推察する中井氏の文章から、しばらく目を離して窓の外を眺めていた。

レヴィ=ストロースの庭

 どこまで続いているのか窓からの眺めでは分からないが、きっと小路の先のどこかに境界があるのだろう。ジャルダン(jardin)もガーデン(garden)も、もともと囲いのある土地をさすことばだ。柵のなかには水が引き入れられ、果樹が植えられ、動物が飼われている。「パラダイス」も古代ペルシアの、柵で囲まれた土地に語源があるという。領地が広大になりヴェルサイユ宮のような壮大な庭園となっても、この構図は変わらない。柵の外は森であり、人間以外のものの棲み家である。誰もが無闇に入っていける場所ではない。それはブルゴーニュの森でも同じこと。p030(「庭の神話」『レヴィ=ストロ−スの庭』港千尋NTT出版、2008年、ISBN:4757142021))


「神話の主だった舞台の一つであるアマゾンは、森であると同時に庭であった可能性がある」。たしかに、フレームが失われてしまえば、その「ガチャガチャした色の階調」−−なぜだが『檸檬』(梶井基次郎)の言葉がふと浮かんだ−−だけからでは森と庭との区別は困難である。

 問題とされている語はクロマチック(chromatique)で、辞書を引けばわかるように、英語でもフランス語でも、「色彩」と「半音階」という意味がある。ルソーが、まったく異なるふたつの意味のあいだの関係を、「他のふたつのものの中間という類概念」として説明しているように、クロマチックという語が示すのは色と色との間隔、あるいは音と音との間隔という、感覚的に把握される差異である。これにしたがえば写真のモノクローム表現も、絵画における色と同じく、クロマチックなものということになる。p063(「写真と音階」前掲書)


そうか、「もし病気と毒が半音階的な存在なら、人間の感覚にとってクロマチックな現象である虹と共通の属性をもつことになる」のか。虹と同一視されるのは蛇であるが、病気や毒のように災厄とばかり結びついているわけではない。多く女性をともなって自然の恵みをもたらすものとしても現れるのだ。

 アマゾニアのテフェ湖に伝わる神話は、とりわけ忘れがたい。主人公は土器つくりが下手なために義理の姉妹たちに馬鹿にされている若い女だが、ある日老婆がやってきて、彼女にすばらしい土器の作り方を教える。それは姿を変えた妖精で、これからはヘビの姿をしてやってくるが、嫌悪感をもたずに接吻しなさいという。その言葉に従うとヘビは妖精になって、土器の彩色の仕方を教えるのである。p064-065(同上)


ギニアでは蜂蜜の起源そのものが女性である」。そうなんだ。ヴァレリーの蛇は蜜蜂に姿を変えたが、彼は毒もまた自然のたまものであるということを、そしてそれを甘い飲み物として世界に実現させるには賭けをしてでも奇跡を呼び起こす以外にないことを、知っていたのかもしれない。

 したがって妻として家にとどまっている蜜蜂の精という存在は、森のなかの蜂蜜採りの逆転である。汗と擦り傷と煙たさと、そしてなにより襲いかかってくるハチが刺す痛み、それらすべての苦労が逆転されたものが、小指でつくられる甘い飲み物である。誰もが分かっているようにそれはありえない逆転で、だから蜂蜜の女が行うことは、奇跡なのだ。人生はミツバチの飛び去る速度にある。しかも飛び去った蜜の精は、二度と戻ってこない。それは光線のようなものである。だが戻らないことを知りながら待つことができるところに、人間のよさもあるだろう。p098(同上)


さて、ヴァレリー自身は、「失われた酒に酔う」ことを「人間のよさ」だと認めただろうか。

日時計の影