SAIGA Keiko, ethics

『空腹について』雑賀恵子青土社、2008年、ISBN:4791764382)を読み始める。薬学部と文学部を出て、農学部の大学院を修了している著者である。
目下の興味は「食人論」。人食いといえば、小説『野火』(大岡昇平)であり、戯曲『ひかりごけ』(武田泰淳)であり、ノンフィクションだと(これはこの本でもふれられているが)アンデス山中に墜落した飛行機の乗客たち(多くは同じラグビーチームのメンバーだった)を扱った『生存者』(P・P・リード)、映画では『ゆきゆきて、神軍』(原一男)、実際の事件としてはパリの留学生でオランダ人女学生の肉を食べた佐川一政(これはのちに唐十郎が『佐川君からの手紙』に書き、本人は『霧の中』を書いた)などが思い浮かぶ。
著者は『生存者』の「かれら」が合議をしている点に注目している。

 確かに、食人の禁忌はあって、それを行うことを想像するだに生理的な嫌悪を催したが、一方でそれをしないと全員が死に至ることも充分に認識していたのであるから、食人そのものの必要性については十分理性的な判断なのである。しかし、それを実行するのは、また別の決意が必要なのだ。これは、罪悪感とは異なる。つまり、それがなぜ起こるのかはさておき、理性的決断のあとでもなお残り、拭いがたい生理的嫌悪感の克服を、仲間とともに決断することによって促し、行おうとするということではないのか。この生理的嫌悪感を、言語でもって正当化するという手続き、つまりは〈社会化〉という手続きでもって漉して、合意を得る、そのことが必要であったように思えるのである。p162


そして、この「手続き」は「人間が他者と生きるときに、調整としての規範-道徳が設定され」たものであり、それは「根源的な禁忌」ではなく、「それに反することに罪悪感を感じることがあっても、生理的な嫌悪感とはまた異なった位相のもの」だ、と。
対して、生理的嫌悪感のほうは、倫理的な問題の領域に属していて、「食べるためにしても、ほかならぬこのものを殺せるか、あるいは、死んだこのものを食べることができるか」「その選択が迫られるのが極限の状態であったとするならば、それは、わたしというものが生をどうそのときその場に設定していくか、という決意の問題」なのだ、と。
「言語をもちうる他者の眼差し」がないところで、社会的規範が働く手前にある場所で、わたしたちは立ち竦む。「わたしのみがわたしに問わねばならないもの」によって。そのものの仕草や表情、感じた苛立ちや厄介、そのものとの睦みや親しみ、自らの記憶、そのものによって生きられた時間の厚みへの想像力、などなどが襲いかかる。
もちろん、わたし個人の領域(倫理)とわたしたちの領域(道徳)とのあいだにきれいな線引きはなされていない。しかし著者は、どんなに小さいものでも、それが人間集団なら、「言語的な処理の基準を定めなければならない」として、食人をしたものは死刑にするという「緊急処断令」を出したニューギニア第一八軍司令官の例を−−牛尾節夫『神を見た兵隊−ガダルカナル兵隊戦記』を引きながら−−あげている。
「この体の肉を」「みんなの腹の足しにして下さい」。戦友に自分の肉を食べてほしいと頼む兵隊は、たしか『野火』でも描かれていたと思う−−ここで、ふいに柳田国男『山の人生』に描かれた自分の身体を親に差しだす子供たちの姿が思い浮かぶ−−が、キモになるのは、友軍と敵軍とのあいだに線引きをしていたことであろう。「但し敵の人肉はその限りにあらず」。
言語的な処理の基準(規範)とはいえ、その「言語」には壁がある。この「令」でもって示された「人道」という規範は、人間普遍にたいしてではなく、友軍にのみ作動するそれであったのである。元寇に際しても日本の武士たちは「内地」での戦い同様に「名乗り」をやってみせたが、そのあいだにも元軍はあたりまえのように攻撃を仕掛けてきた、ということを思い出してしまった*1

 ……、人道ということもまた、言語を経由し、言語を仲介とするならば、その都度の恣意的なものであって、絶対普遍に対する絶対禁止ではない。
 だから、なおのこと、たとえば戦場においての人肉食という出来事について問われなければならないのは、その行為そのものではなく、その行為を引き起こした社会的な仕組み、なのである。p174


「わたしたちが問いうるのは、倫理の範疇ではなく、法-規範、道徳の範疇」である、「おぞましさがあるとすれば、人が人を食べる状況を創り上げたことがおぞましいのである」と、あらためて著者はいうのだが、そして倫理の水準で問うことが困難なことであることは認めるのだが、それでもやはり気になるのは、倫理の領域の(あるいは「決意」の)問題であり、また「社会的な仕組み」が「言語」でもってつくられる(ほかにない)、という問題である。

空腹について

*1:ここまでくると、いま読み進めている別の本のなかで問題にされているカール・シュミット政治学における議論とも結びつけたい気持ちもするのだが、うまくまとまりそうにないので、また別の機会にしたい。