Kyoto, TAKEUCHI Yoshimi, Aby Warburg

蛇儀礼 (岩波文庫)いまとなってはもう昨日のことだが、前日に加藤周一が亡くなっていたことを朝刊ではじめて知って、K氏から紹介されていて、しかしでかけようかどうか、直前まで決めかねていた「公開シンポジウム『竹内好の残したもの』」をやはり聞いてみたいような、聞かねばならないような気になって、『蛇儀礼(アビ・ヴァールブルク、三島憲一訳、岩波文庫ISBN:4003357213)を読みながら、京都に行ってきた。
中島岳志の「アジア主義ナショナリズム竹内好における60年安保闘争と主体形成」と題した基調講演は、たいへん熱の入ったもので、その声の力強さも印象的であった。ただ話の中身というよりは、その語勢のうちにやや性急さを感じさせるところがあり(それほど氏にとって「竹内好」という問題が切迫したものであるということ、それはそれでわかるのだが)、そこに微かにではあるが危惧を覚えたのも事実である。中島氏も「決意」には関心があるようなのだ(「決断主義」という言葉そのものはなかったのだが)。

 聖書において蛇はいっさいの悪の原因であり、そのために楽園追放の罰を受けます。にもかかわらず、この蛇は、不死身の異教の象徴として消し去ることができず、治療をもたらす神として、聖書の一章に再び忍び込んでいるのです。
 古代ギリシアにおいても蛇は同じく、もっとも深い苦痛のあり方を映し出すものでありました。そのことはラオコーンの死の像に見られるとおりです。ところがそれと並んで古代ギリシアは他方で、蛇を使いこなす治療の神としてアスクレピオスを描き出し、取り押さえた蛇を手に持ったこの蛇使いの神を、星座の神として天空に配置しました。そうすることによって蛇の神の捉えがたい豊饒さをイメージへと移し替えたのです。
 中世神学において蛇は聖書の例の箇所ゆえに再び登場します。運命のシンボルとしてです。そして、すでに克服された段階であることがはっきりとしてはいますが、より高い存在へと変容し、それどころか十字架の磔刑像の横に据えられることになります。
 蛇は、いったいこの世界においてなぜ根源的な破壊と死が、そして苦しみが起きるのか、という問いに対するまさにさまざまな地域にまたがる返答のシンボルなのです。p88-89


シンポジウムのコーディネータでもある鶴見俊輔が、会場に入ってきたときには、まるで仙人がそこに現れたかのようにも見えたが、いざ演台の前に立って話がはじまると、その抑揚と強弱、メリハリをほどこして発せられる声は、生身の人間を、というか、思想がまさにそのかたちをして生きているとしか思えないような、その身体を、上演させてでもいるかのように目の前に浮かびあがらせる。
抽象的な質問に対する発言においても、けっして生活世界を手放すことなく、そこでのささやかなエピソードを、ユーモアを交えつつ紹介しながら、それがそのままアレゴリカルな思想的逸話になってしまう。この手腕には、やはり舌を巻く*1。鶴見氏が加藤周一のことを「シュウちゃん」と呼ぶ、その響きのうちにわたしは、彼が彼自身に問い直そうとしている問いを、だれと何を行いどう引き受けてきたか、という問いを、聞いた気がしたのだが、それはまた、この問いを、わたしたちで一緒に生きてみませんか、という呼びかけだったのかもしれない。

破壊と治癒という蛇の象徴が宿しているこの二つの可能性を、ヴァールブルクは、片方をラオコーンの姿のうちに、もう片方をアスクレピオスのそれに見ている。異教の祭司であるラオコーンは蛇の強烈な力に太刀打ちできず、滅びる。反対に、「古代の神の中でもっとも冷静沈着な神」であり、予型論的には救い主としての神にすでにきわめて近いアスクレピオスは、蛇の毒を毒(ファルマコン)として、また薬として、苦しむ人間に与えるすべを知っていた。同時にヴァールブルクは、彼の思考の中の相反する両極、しかもその作品や発言の全体構造を決めている両極を、この二人の姿を通じて表現しようともしている。その両極とは、アゴーンとセラピー、すなわち闘争と治療である。p139(ウルリヒ・ラウルフ「ドイツ語版解説」)


革命的ナショナリズムがどうして反革命ナショナリズムにとりこまれてしまうのか? 「方法としてのアジア」とは? 抵抗の主体が思想の欠如によって、いや思想を獲得してもなお、体制化してしまうのはなぜなのか? 「反革命の中から革命を引き出してくること」とは? 等々。中島氏は、こうした竹内好が過去に問いかけた問いを現在を生きる自身としても共有しようと努めながら*2、京都学派やカール・シュミットを(能産的自然やマルチチュードという問題ではスピノザネグリまで)もちだして、「優等生=ドレイからの脱却」を模索し「永遠の革命」をめざした竹内好の思想の核心を浮かびあがらせることに、十分成功していたと思う。
竹内好が残したものとは、「自分で考えろ」ということだ、そう鶴見氏はいった。彼は私が「くっだらねー」と芯から思うことに大事なものを見ようとしていた、と。しかしそれはどう考えても私にはやっぱり「くっだらねー」ものです、が、私たちはそれをそれぞれ自分自身で考えるほかにない、と。もちろん鶴見氏が、にべもなく否定し去るのはその思想の一面であって、竹内好という人間については多元的な肯定的な評価をしていたのである。

 緊張の中での象徴の発生という議論に関して、もう一つの重要な文章を忘れてはならない。それは、メキシコの人身御供について「こうした秘儀の血まみれの根から今なおひそかに養分を汲み上げていないという保証はありません」という文章である。カチナ人形との関連では、「私たちのヨーロッパでの人形も元来はこうした聖霊(デーモン)でなかったとは言いきれない」、とも述べられている。こうした非合理的な魔術のエネルギーが、象徴化され、やがて緑の木の崇拝や芸術的なカチナの仮面に至る−−そしてそれが全体として、世界史的な脱魔術化と緊張関係を保つところに文化が成立するというのがヴァールブルクの見方であろう。文化には暴力と血がその根に潜んでいる。しかし、重要なことは、そのエネルギーの象徴化、内面化なのである。恐怖からの距離、魔術から象徴への変換に伴う物との距離−−これをヴァールブルクは文化が生まれるための人間の思考空間(Denkraum)と呼んだ。そしてこの太古の恐怖は、第一次世界大戦半ばからのユダヤ人としてのヴァールブルク本人の恐怖でもあったところが、理解の鍵である。p197-198(三島憲一「ハルツ・アテネ・オライビ」−象徴と文化の変遷をめぐるヴァールブルクの個人的および普遍的な問題−(訳者解説))


大澤真幸は、経験から思想が生まれたとして、それを概念に鍛えあげることではじめて継承が可能となる、概念化が大切だというような、まあ当たり前といえば当たり前なことをコメントしていたが、彼だけでなく誰もが*3、自覚的に中島氏の(どうかすると「絶対矛盾的自己同一」のようなところに収斂してしまいそうな)迫り方に対して、まともには応えないようにしている、そんな印象を受けた。
大澤氏の発言で、これは、と思ったのは、氏は小説や戯曲などによる感動の例をあげてあれこれと表現を探りながら何度も同じことを説明しようとしていたのだが、ついにプリーモ・リーヴィ(と彼は発音した)が、自分はユダヤ人だろうか、それとも人間だろうか、という問いに引き裂かれて悩むという話をもちだして、それはこういうことではないか、と言葉を継いで、たとえばある人がユダヤ人である(という特殊性をもった)自己を引き受けようと決意したとき、そのときにはじめて「ユダヤ人」というものにおさまりきらない残余が、プラスαが見いだされる、それが「人間」(という普遍)につながるなにものかではないか、と。逆にいうと、あなたがあなたであるという個別性を、たとえば日本人であるという特殊性を、自らのアイデンティティとして引き受けることなしに、いきなり普遍(たとえば人類)であることはできないということである。この言い回しは、すんなりと腑に落ちた。「残余」からこそが、むしろ問題なのだとしても、主体形成(決断・決意)が必ずしも内部的なものに留まらないこと、外部への通路が可能性としては残されてあること、それらはまずは伝わる。
夕暮れが近づいた鴨川沿いの道に寒風が吹いていた。気持ちは必ずしも暗くはなかった*4。そしてやっぱり八ツ橋をおみやげに買って帰ることにした。

*1:鶴見俊輔の話の中から、上の文章でふれることができなかったことを断片的ながらメモしておく。横井小楠やジョン万次郎のこと−維新以来、もっとも想像力を低下させた時代を生きている日本人という文脈で。孫歌と実存主義歴史観。今現在に過去がある。戦争支持を撤回せず、戦争もろとも日本を壊すのが本懐だった?竹内好−酒の飲み方との共通性。金大中金芝河の釈放要求のハンストデモにやってきて、朝鮮の問題はわからないから自分はかかわらないといい、しかしカンパの金をおいていった竹内好−否定の仕方にも色々あるという文脈で。ヨーロッパ(思想)の母としてのアジア−これは山田慶児の発言をとりあげたもの。日本人はずっと日記(という文学)を書いてきている−これは90年代以降日本文学は死んだとする柄谷行人の見解を追認することになったという中島氏の発言に応えたもの。

*2:中島氏によれば、現代の敵はもっと見えにくい相手になっているのだから、敵がわかりやすい「物語」である『蟹工船』の最近の流行は、文学(想像力)の減退の証であり、文学(小説)は政治の領域で存在しているはずの「抵抗」を掬いきれていないということになる。

*3:他の発言者(とその発言内容のこれも断片的メモ)は以下のとおり。山田慶児(科学史家)−地理的な概念ではなく、対近代ヨーロッパあるいは非ヨーロッパ的概念としてのアジア。山田稔(作家)−富士正晴と似ている竹内好チェーホフ竹内好。井波律子(中国文学者)−否定文を重ねて肯定に向かう魯迅竹内好の文体。黒川創(作家)−時代状況の比喩としてのプラナリア(とその水の入れ替え)や調査中だという大逆事件、大石誠之介の話が印象的、作家として「届く言葉」を考えている。

*4:満杯で立ち見が出るほど盛況だった会場を埋めていたのが、ほとんど年輩者であったとしても。