HIGAKI Tatsuya, ethics

『賭博/偶然の哲学』を再読する。

  • 能動性の領域は奈辺にありうるか。

 ……、私は自然においてほとんど根本的に無責任である。科学主義的な世界は、それを明確にした点できわめて重要な意味をもつ。だが私が無責任であるにもかかわらず、私は何かをしなければならない。その場面は、つねに賭けにならざるをえない。賭け自身が、「現在」という構造と、そのありかたを探るものである以上、それは受動性のなかで浮かび上がる能動性、世界の反復を引き継ぎながら「この今」において形成される賭けである。それはまさに「現在」という時間の本性を巡ってなされるものである。賭けは、行為の無意識を背景として、そうした無意識のもとで浮かび上がってくる自身に対して、眼差しを向けなおさせてくれる。
 そこでもうひとつ見逃せない側面として、それにもかかわらず、私は責任をとることにおいて、必ず個人化・個体化されるということがある。責任とは、罪や罰という、人間の社会・共同体的体制の根幹を担うものでもある。だが、そのことも、先の問いの曖昧なありかたを、何処までも引き受けたものたらざるをえない。能動性は、自然的な受動性、〈構造−理念〉の圧倒的受動性のもとにしか発生しえないからである。p123-124