SATO Yoshiyuki, Louis Althusser

『権力と抵抗』(佐藤嘉幸、人文書院、2008年、ISBN:4409040928)を読み始める。

  • 浅田彰は『構造と力』で、グラムシの言葉「英知においては悲観主義者、だが、意志においては楽観主義者たれ」をモットーにしていたというアルチュセールにふれていた。
  • 本書は、もともと仏語で書かれた論文がもとになっている。原文を日本語に「翻訳」し直す際に、とくに語彙の選択などにおいては、ある種の貧しさを強いられたのではないか−−パラフレーズを導くフレーズなどが、その見やすい典型だろうか−−そう思わせるところもある。しかし、おそらくはその構文の水準においても徹底された律儀な「翻訳」ゆえに、はじめて達成が可能となったと思われる、文章の明晰さのほうが、はるかに目立っている。
  • アルチュセール精神分析を「唯物論化」するその繊細な手つきを、明瞭な理論的操作として切り出してみせる佐藤氏の手並みは、見事である。


・「ラカンの『運命的』理論との根本的差異」

しかしアルチュセールは、主体のイデオロギー的縫合は完全には実現されないと考える。彼はその点を〈一次イデオロギー〉と二次イデオロギーの差異として示している。国家のイデオロギー諸装置が注入しようとする支配的イデオロギーは、イデオロギー的呼びかけ/取り込みの過程において逸れを孕む。支配的イデオロギー(〈一次イデオロギー〉)と、主体によって内面化されたイデオロギー(二次イデオロギー)との間のこの偏差の中に、支配的イデオロギーへの抵抗の効果が現れるのである。アルチュセールは抵抗の可能性を、主体の能動性にではなく、このようなイデオロギーの偏差に見出している。彼にとって主体とは、中心なき社会構成体、目的なき歴史的過程に登録された「行為者[agent]」でしかなく(歴史とは「主体も目的も持たない過程」である)、主体の能動性(「自由で」「構成的な」主体というカテゴリー)を抵抗の動因とすることは厳格に禁じられている。抵抗の可能性は、イデオロギー的呼びかけ/取り込みの過程に物質的偶然性として介入するイデオロギーの偏差の中に、効果として現れる。p302


・「精神分析との関係における哲学の自己−他者触発の過程」(精神分析が権力理論にもたらしたものを、哲学はどう受け取り、どのように応答したのか)

アルチュセールが強調するように、いったん新たな構造が生起すれば、それは「まさしく無意識のように無時間的に」自らを再生産しつづける。そのような社会的再生産は、社会構成体に偏在する国家のイデオロギー諸装置の呼びかけに依拠している。ここに私たちは、イデオロギー的呼びかけ/取り込み、社会構成体の無時間的再生産という、精神分析理論が権力理論にもたらした二つの基本概念を見出すことができる。私たちは、文字通り「構造主義的」理論であるラカン理論において、これら二つの定式化の緊密な関係を示すことができる。ラカンにおいて、無意識への欲動の書き込み、あるいは主体への欠如の書き込みは一度限りであり(原抑圧)、その時点から、この欠如が主体の欲望を反復的かつ「無時間的に」動機づけるだろう。ラカン理論が本質的にこのような欠如と反復の弁証法であるとすれば、それは「欠如を孕んだ」主体、無意識構造の形成とその反復的再生産の理論ではあれ、主体と構造の変容の理論ではありえない。アルチュセールが「運命の哲学」と呼んだものは、そのような主体と構造の反復的再生産に関するラカン理論のことである。「運命的に」決定され、「無時間的に」再生産される構造の他化を理論化するために、アルチュセールは「偏差」(物質的偶然性の侵入)の概念を提示し、デリダは「散種」(欲動の複数の書き込み)の概念を提示する。p316-317


デリダとの差異

アルチュセールにおける出来事の理論の時間性は現在時に限定されている。彼はヘーゲル的目的論を拒絶しつつ、構造の生成変化の契機を純粋な現在性の中に見出している。換言すれば、アルチュセール理論における必然的なものと予測不可能なものとの間のずれは、現在の複合状況に限定されている。それに対してデリダは、目的論批判の立場を取りつつ、出来事を終末論的時間(「過ぎ去った終焉」)から、つまり過去と未来の絡み合い、記憶と来るべきものの絡み合いにおいて考える。まさしくそれこそが「亡霊性」の意味作用なのである。……/終末論的時間とはこの「生き生きとした現在の、自らに対する非同時性」であり、それは「もはや、あるいはいまだ現前しておらず、生きてはいない者たち」への正義への責任を命じるだろう。そして、過去と未来が交錯するこの時間性(「亡霊性」という超越論的時間性)は、厳命として、現在時における抵抗の責任を要請する。こうして、亡霊たちの呼びかけは、他者による触発可能性のための空白を開く。換言すれば、解放の約束(予測不可能な来るべき侵入)と、現在の抵抗の実践との時間的「離接性」は、亡霊性の呼びかけに由来し、現在時における無抵抗の抵抗を命じる定言命法あるいは超越論的命法なのである。ここで次のように言うことができるだろう。抵抗に関するデリダ理論とアルチュセール理論の差異を構成するものは、出来事の時間性における離接性(超越論的なもの)の優位と複合状況(現在的なもの)の優位との間の差異なのである。p309-312

  • 佐藤氏は、アルチュセールデリダのどちらの思想が正当かとは問わない。いずれの思考にも共通するその可能性を「ラカンの『運命的』理論に抗するものであると同時に、単なる偶然性の肯定という機会主義に抗するものである」ところに見ようとする。
  • そして一歩進めて、「概念の生成」=「静的生成」(『哲学とは何か』)ではなく「動的生成」(『アンチ・エディプス』)の可能性を「現在性」において探ろうというのである。


権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール