TANAKA Jun, Aby Warburg

『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』田中純青土社、2001年、ISBN:4791759184)第四章蛇儀礼講演だけを覗き読み。
田中純は、ヴァールブルクの蛇儀礼講演を、クロイツリンゲンにあったビンスヴァンガーの私立療養所ベルヴュー(という「地獄」)から脱出するための、自己救済的な行為として、捉えている。外部の権威であるクレペリンの指導のもとに方針変更し、自分に阿片療法を施した主治医ビンスヴァンガーへの「抵抗」として。
 田中氏は、「蛇儀礼」というタイトルはヴァールブルクの死後に付けられたものであり、彼自身は当初「イメージ」に重きを置いていたこと、『蛇儀礼』のテクストはあくまで講演のための草稿であり、講演は50枚余りのスライドを用いておこなわれたことを指摘する。

 ジョルジョ・アガンベンによれば、バロック時代においてエンブレムは「もっとも深遠な認識の企てとともに、もっとも内奥の不安にも委ねられた中心的な形象」だった。そこでは外観と本質との一致や統一ではなく、両者の不一致や差異こそがより高い認識の媒介とされた。つまりエンブレムにおいて形象はけっしてそれ自体を意味することはなく、つねにそれ自身とは異なる意味の解読を強いたのである。しかし、エンブレムの本質が記号表現と記号内容との不一致にある以上、この解読作業に究極的な答えは存在しえない。エンブレムの形象は「謎」にとどまる。ではこの「謎」はどんな作用をおこなっているのか。アガンベンスフィンクスオイディプスの神話を引き、「謎」の背後に隠された「答え」というシニフィエを見出すオイディプスの身ぶりは、スフィンクスの「謎」にとって非本質的なものでしかないと指摘している。「謎」が属すのは「魔除けの領域」、「すなわち自らの中に不気味なものを引き寄せ受け入れつつも、同時にそれを拒否するという防御能力の領域」である。謎においてひとは、つねに対象との距離を保つことによって対象に近づこうとする。そこに表わされている「無気味なものとの関係」のモデルが、「距離をとりながらもものごとの核心に達するという、迷宮のダンス」にほかならない。p107

 

そして田中氏は、この「写真という近代のエンブレム」を用いたヴァールブルクの解読の試み自体が「『無気味なもの』をめぐる接近と防御の舞踊」であったと見る。ヴァールブルクが現代において脅かされていると見取ったものこそが、「この魔よけの能力にほかならなかった」と。

 自分自身という「地震計」がテレパシーのように過去から、あるいはたとえば蛇象徴の根源に埋もれて横たわっている人身供犠の記憶のような文化の古層から受け取る信号は致命的に破壊的なものでありうることを、ヴァールブルクは予感していた。象徴はたしかに外界からの刺激に対する防御を可能にする。しかし、その作用は両極的であって、防御するものであると同時に象徴自体が脅威でもあるのだ。プエブロ族の蛇象徴のなかにもいまだなお、「祭儀の血生臭い根」から吸い上げられた「樹液」が残されている。ヴァールブルクの恐怖の根源は、両極的象徴の微妙なバランスが崩れ、そのイメージの記憶のなかに蓄えられた錯乱と狂気の波動が無媒介的に押し寄せてくる可能性にある。象徴は魔術とロゴスの二分法には収まらない。象徴そのものが分裂している。蛇が破壊的な脅威であると同時に不死性を意味するものであるように、象徴は人間と環境とを媒介する「観想空間」という距離を作り出すと同時に、そのような距離を根源から破壊する錯乱を潜在的に秘めている。もちろんこれは明らかな矛盾だが、しかし、この矛盾こそがスフィンクスの語る謎としての象徴の本質であり、その力なのである。p110-111


自分自身を、文化の古層からの信号をあるいは精神の不可視の波動をキャッチする記録装置に、譬えるヴァールブルク。防御であると同時に恐怖の根源でもあるものとしての、すなわち「『精霊を宿した物体』という奇怪な物神(フェティッシュ)」としての象徴。
魔術から象徴への移行は、人間精神の一つの通過儀礼である。が、象徴がたんなる記号となっても、なおその魔力を失うわけではない。「魔術的結合へと逆行する」こともないが、また「抽象的論理概念への解体を徹底化することもない」、つまりは「魔術的な願望充足と論理的現実認識のあいだをつねに揺れ動く人間精神が選び取った微妙な平衡状態」なのである。しかしこの均衡が破れないという保証はない。ために「精神化」はつねに過渡的であるほかない。「両極性を内在させた象徴による思考は無時間的に、あらゆる時代にわたって残存しつづける」。私たちの思考は、象徴とともに分裂的であるしかないのである。

 古い書物をひもとくように、ヴァールブルクはスライドを差し替えながら、アメリカ西部の記憶からヨーロッパの文化史的記憶につながるイメージの連鎖を上演する。彼自身が蛇儀礼を目撃していないにもかかわらず、その主題が蛇とされたのは、それがこの講演そのものの寓意的なイメージになっているからだ。まず内容にかかわる事柄として、蛇が象徴するものは、皮を脱ぎ捨てるようにかたちを変えながら、あらたに再生しつづける両極的「象徴」それ自体である。次にスライドを次々に替えてゆく講演形態もまた、蛇の脱皮を擬態するものと見なしうるだろう。そして、この講演それ自体がヴァールブルクにとっては、狂気からの理性の回復という脱皮=再生の儀式にほかならなかった。すなわち蛇儀礼講演とは、蛇象徴について論じることにより、一匹の蛇として再生しつつある自己自身を構成するという、自己言及的で行為遂行的な発話なのである。それはヴァールブルク自身の演じた蛇儀礼であった。そこに織りなされたイメージ連鎖は、時代の混沌と精神の混迷のなかに象徴の宇宙という「観想空間」をふたたび作り上げようとするものだった。象徴という謎をめぐってヴァールブルクは、距離を確保しながら「無気味なもの」に接近する迷宮の舞踊を舞ったのである。これによって彼は、ベルヴューという監視機構が前提とする近代的理性の啓蒙、オイディプス的な啓蒙とは異なる、もう一つの啓蒙を実践してみせたのだ。それはスフィンクスの「魔よけ」の謎による啓蒙という逆説にほかならない。p118


田中氏は、ヴァールブルクが自分の撮った写真と他人が撮影した写真とを区別をしていないこと(記憶の再現手段としてではなく、解読されるべき象形文字あるいはエンブレムとしての写真)、自分自身が写った写真を排除していること(自分自身という寓意を解読することの回避)、さらに講演用のメモや草稿が時間的にも空間的にも広がりをもったイメージや記憶によって幾重にも重ね書きされていること(再録羊皮紙=パリンプセプト性、あるいは白日夢性)、などを見逃さない。

ヴァールブルクは講演の内容が学問的成果ではないという不完全性の自覚の表明によってこそ、メタレベルに立って学問的言説を批判的に検証する理性による自己規律の能力を証明し、人類全体の普遍的な精神分裂の治療不可能性を導き出す言説を通じて、精神分裂病という狂気の診断下から自分自身を解放しようとしたのである。p119


ヴァールブルクがその「冥い旅の道案内」としたとされる「金枝」(=樹木の精霊の、あるいは樹木としての人間のイメージ)については、ここでは省く。

アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮