NISHIWAKI Junzaburo, a walk on the surface of eternity
- 散歩に出てみたくなって、鴉がかわかわと鳴いている。飛び去っていく、もう一羽の呼びかけに応えているのか。
- その声の下で、すっと時計の世界から切れてしまう。音楽が身体から湧きあがってくるあの感じが、もうやってきたのだ。いつもいつも長閑な春として、涌いてでるとはかぎらないけれど。すでに音楽そのものになってしまった自分は透明になり、街に空に四散している。
- 湧きあがっては消え、消えてはまた新しく生まれ出てくる、一歩、一歩、いま、いま、のこの感じ。そしてこの「今」が「すべて」でもあることに、何度でも驚いてしまう。一続きのものとしてあるわけではなく、ここからここまでときれいに限ることもまたできない、などと気を取られて、もう物差しの世界に戻っている。
- しかしそもそもこの散歩は、いつに始まっていたのだろう。散歩というやつはいつも、気がついたときには始まっている、というか、終わっているのだ。あの今を求めて、わたしはまた歩き始めるのだがついつい、また出会っているこの今は、もちろんあの今ではなく、などと、今度は一歩や二歩でなく散歩から離れてしまう。
こわれたガラスのくもりで
考えなければならない*1
- シムボルのない季節にもどり、遠いものの連結を楽しみ、反射のゆらめきの世界に生滅するものにこそ永遠を見ようとした?詩人を思い浮かべたとたん、目の前を黒猫が太い脚を見せて横切る。あ、とそのとき、思う。天の鴉が、地に現れたな、と。人に戻っている私は思う。かわかわと歩きやがって、と。
Lang ist
Die Zeit, es ereignet sich aber
Das Wahre.*2
- 最近目にとまってメモしたまま忘れていた、このヘルダーリンの「ムネモシュネー」の一節が出た。いつどの本から引き写したのだったかという記憶といっしょに。
*1:西脇順三郎「えてるにたす」の一節。ハイデガー『哲学への寄与論考』のヘルダーリンを評した言葉をもじって、「西脇順三郎、現在的な者たちに属す、遥か近くからやって来る詩人、したがって最も来る/来ている詩人。西脇順三郎は、最も遥か近くからやって来て、この遥かな近さの中で最小のものを測り抜き、それを変容させるがゆえに、最も現在的な者である」と言ってしまいたくなるが…。
*2:「時は長い。/しかし、真なるものは、/出来事として生じるのだ。」(『ハイデガー『哲学への寄与』解読』p46、鹿島徹ほか、平凡社、2006年、ISBN:4582702597)。この言葉は、Mnemosyneの古いFassungにあって、letzt草稿にはない。たとえば『ヘルダーリン詩集』(川村二郎訳、岩波文庫、2002年、ISBN:4003241134)にはない。その代わりというのも何だが、Schlange(n)が出てくる。