MIZUMURA Minae, Modern Japanese Literature

ユリイカ』2月号(特集=日本語は亡びるのか?、第41巻第2号、ISSN:1342-5641)を読み始める。


蓮實重彦「時限装置と無限連鎖」

それは、『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』でくわしく述べたことだが、たとえばある程度まで頭のよいデュ・カンにとって、シャルル・ボードレールギュスターヴ・フローベールも、自分よりは遙かに「頭の悪い人たち」にほかならず、何度もそう書き記しているし、「あんなもん読む気がしない」と翻訳しうる振る舞いさえ演じている。『悪の華』の詩人と『ボヴァリー夫人』の小説家は、ヴィクトル・ユゴーのような「文豪」にくらべてみれば明らかに才能を欠き、知性も劣り、言動も稚拙で、自分が多少の世話をやいてやったところで、とても大成しそうもない小物だと思われていたのである。わたくしが「あんなもん読む気がしない」と口にするのを自粛していたのは、やや大袈裟にいうなら、そういうことで二度目は「笑劇」として生起する歴史的な反復に加担することだけは避けようとする配慮がどこかに働いていたからかも知れない。


巽孝之アレゴリーはなぜ甦る」

もともと、いちどは信じられないほどの高みへと達しながらも転落せざるをえなかったものたちへの切々たる想いは、ロマンティシズムの前提であった。だからこそ、かつては圧倒的な隆盛を誇りながらも批評史から棄却されざるをえなかったド・マン的脱構築理論の精神が、とくにそのアレゴリーの心が、いま水村を通した漱石、水村を通したオースティン、水村を通したブロンテというかたちで命脈を保ち、しかも近代日本文学を支えた「日本語」への強烈にして叶わぬ想いに貫かれているのに気づくとき、まことに逆説的ながら、そこにこそ日本語文学の豊饒化の可能性を認めざるを得ない。アレゴリーとは、何よりもまず国語と普遍語とのあいだで生じる現象ではなかったか。いちどはひとつの国語を放棄して普遍語たる外国語の高みに昇りつめようとする夢と、以後再び国語へと戻ろうとしながらも容易には果たされぬ苦汁を嘗め続ける悪夢。だが、このような国語をめぐるアレゴリーを抜きにして、どのような文学も創造されることはない。


四方田犬彦「亡びるなら亡びてしまえジャパニーズ」

 日本語で書くとは日本語の内側で保護されていることに他ならない。わたしは現在日本語で書いている小説家や学者のどれだけがこの事態を心底自覚しているのかを知らない。これが英語で書かれていたら当然アイディアの盗用が問題となるだろうと、陰口を叩かれている小説や論文の噂を耳にするにつけ、多くの日本語のテクストがあらかじめ英語圏やフランス語圏の読者の目に触れないことを前提として執筆されているという事実に思い当たることになる。日本人の目にしか触れないからこそこのようなことを臆面もなく書けるのだという安心感と、どこまでいっても日本人を越えて広い読者に到達することができないという焦燥感とは、実のところ紙一重のものである。日本語で書き続けるかぎり、あらゆる日本人はこの両義的な感情に、意識無意識を問わず囚われ続けているはずなのだが、それを自覚的に文章に反映させている人は寡ない。

  • いま気がついたが、上の三つの引用はすべて否定形で終わっている。それから内田樹のブログ2009年01月05日のエントリーに「「内向き」で何か問題でも?」があったのを思い出した。


ユリイカ2009年2月号 特集=日本語は亡びるのか?