Enrique Vila-Matas, BARTLEBY Y COMPANIA

バートルビーと仲間たち』エンリーケ・ビラ=マタス木村榮一訳、新潮社、2008年、ISBN:4105057715)を読み始める。


・マルセル・マニエールという作家の〈幕間劇〉として紹介されている対話

 いいえ「重要でしかも簡単に言えることは、人間が考え、懸命に生きてきた過去数千年の間に言い尽くされてしまった。視点を高めることと関わりのある深遠な事柄、つまり広汎にわたる壮大なことはすべて語り尽くされたんだ。今日、われわれにできることは繰り返ししかないんだ。まだ探査されていないとるに足らない細部しかわれわれには残されていないんだ。現代人に残されているのは、そういう隙間をわけの分からない細部で埋めるという報われない地味な作業だけだ」
 はい「そうかね? すべては言い尽くされて、語るべきことは何ひとつ残っていないというのは周知のことだし、たしかにそう感じ取れる。しかし、だからといって言語を救済する奇妙で人を不安におとしいれるような規則がもたらされるとは思えないけどね。言葉は生きることをやめたわけだから、結局救われたんじゃないのかな」p172


ショーペンハウアーの言葉として紹介される言葉

「悪書は知性の毒であり、精神をだいなしにする。なぜなら、人々があらゆる時代のいちばんすぐれたものの代わりに、いつもいちばん新しいものしか読まないために、著述家たちも当世はやりの狭い思想圏から出られず、時代はいよいよ深く自分の泥沼にはまりこんでいくのだ」p182


ハーマン・メルヴィルナサニエルホーソンに宛てて書いた手紙として紹介される文章

 ノーというのはうつろではありますが、つねに実りをもたらす中心ですから、すばらしいものです。雷鳴と稲妻をもってしてもノーという精神に対しては、悪魔でさえ無理にイエスと言わせることはできません。というのも、イエスという人間はひとり残らず嘘つきだからです。一方、ノーと言う人はヨーロッパを旅行する賢明な旅行者という幸せな条件を備えています。その人たちはたったひとつのスーツケース、すなわち自我(エゴ)だけを持って永遠の国境を越えていくのです。それにひきかえ、イエスと言うばかな人間たちは山のような荷物を抱えて旅行します。呪われた人間である彼らは決して税関のドアを越えることはないのです。p182-183

あすが来、あすが去り、そうして一日一日と小きざみに、時の階(きざはし)を滑り落ちて行く、この世の終わりに辿り着くまで。いつも、きのうという日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の燈し火(ともしび)! 人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何の取りとめもありはせぬ。(福田恆存「『マクベス』について」(河出書房新社刊『新装版文芸読本 シェークスピア』所収)より孫引き)


バートルビーと仲間たち