Judith Butler, Giving an Account of Oneself

『自分自身を説明すること』(ジュディス・バトラー、佐藤嘉幸&清水知子訳、月曜社、2008年)を読み始める。

  • ヘーゲルニーチェ、ラプランシュやレヴィナスアドルノフーコーを吟味しながら、著者は、自分を説明すること、またその条件について考えていく。
  • まずは、わたしたちは自分というものを完全には説明できないが、自分で自分を説明できないということ、つまりは、わたしという主体が自分だけではなく、社会や他者との関係において作り上げられるというそのことが、わたしにわたしの他者や社会に対する責任というものをもたらすのだ、というところから。
  • そして倫理とは、自分を曝すこと。たとえば知ることかなわぬ瞬間、人間になるチャンスを与えてくれるそのときに。あるいは他者によって壊されざるをえないとき、わたしがわたしでないものに繋がれるその機会に。わたしはどこか異なる場所に送りとどけられ、そこでわたしは満足しているわたしの私をないものにされてしまう。そこから語り、説明するとき、わたし(たち)は無責任ではないし、赦されもするだろう、というところまで。
  • バトラーのここでの、まるで蔓が螺旋を描きつつ自分が巻いているその対象をより明瞭に把握していくような、思考の歩みこそは−−フーコーに寄り添いながら「説明」を説明する彼女自身の言葉を使うならば−−「他者のために、他者へと、さらには他者に対して遂行する一つの行為−−諸行為のより広範な実践のなかに位置づけられたそれ−−であり、談話行為であり、他者のための、他者の面前での行為であって、時として他者から与えられた言語を用いた行為である。この説明は、決定的な語りの確立を目標とはしておらず、自己変容のための言語的、社会的な機会を形成している」(p239)、まさにそんなものではなかったか。

人は自分自身を他者の有害さから守ろうとするが、たとえ壁を作って自分自身をうまく傷から守ったとしても、その人は非人間的なものになってしまうだろう。このような意味で、「自己保存」を人間的なものの本質であると見なすなら−−もしそこから「非人間的なもの」が人間的なものを構成していると主張するのでなければ−−私たちは誤っているのである。倫理の基盤として自己保存を主張する際の問題点の一つは、それが、道徳的ナルシシズムの一形式とまではいかないまでも、純然たる自己の倫理になってしまうことである。人は、こうした傷に対する権利を主張したいという願望と、その主張に抵抗することとのあいだの揺らぎに執着しながら、「人間になる」のである。p191-192

人間主体は自分自身に合理性の諸形式を適用するが、この諸形式の自己への適用は相応の対価を伴う。主体に何かを強要する、この自己への適用の性質とは何か。そこで何が強要されるのか。そこで何が消費されるのか。フーコーは、ここで理性が消滅するとは述べないだろうが、構築主義の自己満足的形式からも距離を取っている。彼が明らかにしているのは、私たちは単に言説の効果ではないが、あらゆる言説、あらゆる理解可能性の体制は、対価を伴って私たちを構成するということである。自分自身について熟考する私たちの能力、私たち自身について真理を述べる能力はそれぞれ、言説、[真理の]体制が言語化可能にすることを許さないものによって制限されているのである。p222

 アドルノは、ニーチェを好意的に批評しつつ、新たな価値の創造という作業を解釈する多くの誤解をまねくやり方に警戒するよう注意を促している。彼によれば、「実際」「たった一人の個人が」単に「個人の立場から新しい規範、新しい戒律を打ち立てること」は「不可能」なのであり、こうした作業は「恣意的」かつ「偶然的」なものである。彼は講義の少し後の部分で、「人間を、つまり私たち一人一人を現在の私たちにしている条件」を変化させることに根本から十分な関心を向けていない、とニーチェを批判している。フーコーはある意味で、ニーチェが部分的にしか成し遂げなかった仕事を引き継いでいる。そしてフーコーは、新たな規範をただ単に作り上げる「たった一人の個人」を賞讃することはないが、それらの社会的条件が何度も作り直される場として、主体の実践を位置づけるだろう。p243-244


自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)