Alfred North Whitehead, Science and the Modern World

『科学と近代世界』ホワイトヘッド、上田泰治&村上至孝訳、松籟社、1981年、ISBN:4879840149)を読み始める。

  • 第五章「ロマン主義的反動」にあるくだりで、続きの一段落だが、長いので五つに分けて記す。

 万有をうち貫き、実在するものの性格それ自身に内在する一事実は、事物の推移、すなわち、ものが一から他へ移り変わることである。この移り変わりは、離れ離れの存在が単に一列にならぶことではない。われわれがある限定された存在をどのように固定しても、最初それを選ぶさいに先立つべき、その存在のきわめて狭い限定がつねに存する。また、最初選んだものがそれ自身を超えて移り変わることによってそこへ融けこんでしまう、もっと広い限定もつねに存する。自然の全体相は進化的膨脹の相である。


わたくしが出来事と呼ぶ統一体は、あるものが現実態へと創発すること(emergence)である。このように創発するあるものをわたくしはいかに特徴づければよいであろうか。そのような統一体に与えられる「出来事」という名は、現実の統一性と結合した内在的流動性に注意をひきつける。しかしこの抽象的な言葉では、出来事の実在という事実がそれ自体何であるか、を特徴づけるに不充分である。いかなる一つの概念もそれだけでは充分ではありえないことは、少し考えればすぐ分かる。なぜなら、それぞれの出来事にその意味を見出す概念はすべて、出来事の実在そのものに寄与する何ものかを表わさなければならないから。したがっていかなる一つの言葉も充全ではありえない。


しかし逆に、なにものも除外し去ってはならない。われわれの具体的経験の詩的解釈を思い出せば、価値、価値的であること、価値を持つこと、それ自身として目的であること、それ自身のために在るものであること、という要素が、最も具体的現実的なものである出来事を考えるさいに省略されてならない、ことをただちに知るのである。価値は詩的自然の隅々まで浸みわたっている要素である。われわれが人間的生というかたちですぐ了解するあの価値を、ものの実現形態それ自体に移しさえすればよい。これがすなわちワーズワースの自然崇拝の秘密である。したがって実現とは本来価値の達成なのである。


しかしたんなる価値というようなものはない。価値は限定から生じるものである。明確な有限存在とはこの達成をかたち造る選ばれた様態である。このようにかたち造られて個々の事実となって現われることを離れて、この達成はありえない。存在する一切のものが単に融け合ったものとは、無限定な無であろう。実在を救うものは、その頑として原理にまで還元し難い、決して他のものでありえないように限定された、事実存在(matter-of-fact entities)である。科学も芸術も創造活動も、頑として原理にまで還元し難い、限定された事実を振り切ることはできない。事物の存続という意味は、それ自身独立した明確な達成形態として現われるものの自己保持にある。存続するものは限定されており、邪魔好きで、狭量であり、その環境を自らのもつ諸相で染める。しかしそのものは自足的なものではない。


あらゆる事物の諸相がこのものの本質自身に入りこむ。それは、そのものの限定の中に、それの存在場所であるもっと大きな全体が集約して初めて自己をもつ。逆に言えば、それは自らの存在場所であるこの同じ環境に自己の諸相を貸し与えて初めて、自己を持つ。進化の問題は、価値の存続的な諸形態がなす存続的調和の発展であり、これらの諸形態は自己を超えてより高き達成形態へと進む万物の姿となって現われている。美的達成は実現形態のうちに織りこまれている。ある存在の存続性とは、ある限られた美的達成がそこで達成されていることを表わす。もっとも、われわれがその存在の外に出てそれの外的影響を見るならば、それは美的失敗を表わすでもあろうが。それ自身の内部においてさえ、それは低次の成功と高次の失敗との闘争を表わすであろう。その闘争は分裂の予兆である。p129-130

科学と近代世界 (ホワイトヘッド著作集)