Ludwig Wittgenstein, ethics

ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930‐1932/1936‐1937』(イルゼ・ゾマヴィラ編、鬼界彰夫訳、講談社、2005年、ISBN:4062129574)を読む。

  • 賛嘆の叫び

「これは善い、神がそのように命じたのだから」、これは無根拠性の正しい表現である。
倫理的命題は、「汝これをなすべし!」とか「これは善い!」といった内容を持っており、「これらの人間はこれが善いと言っている」という内容を持ってはいない。しかし倫理的命題とは一つの個人的な行為なのである。事実の確認などではないのだ。賛嘆の叫びのようなものなのだ。
(1931年5月6日の記述より)

  • すでに罪を犯してしまっている者の言い訳

お前は生まれついての徳というものを軽蔑してるな! 自分にそれがないものだから、と人は言えるだろう。−−しかし、そうした生来の贈り物をまったく受け取らなかった人間でも人間で在りうる、ということのほうがもっと驚くべきことではないか、あるいは、同じくらい驚くべきことではないか!
「お前は苦境を徳に転化しているな」。確かに。でも苦境が徳に転化できるということは驚くべきことではないか。
 これを次のように言い表せよう。死者には罪が犯せない、ということが驚くべきことなのだ。そして生者は確かに罪を犯しうる、しかし罪を断念することもまたできるのだ。
 私は善くも在りうる限りにおいてのみ悪しく在りうるのだ。
(1931年10月31日の記述より)

  • 創造と維持、誕生と持続

 人が、神が世界を創造したと言い、神は絶えず世界を創造していると言わないのは不思議なことだ。というのも世界が始まったということが、なぜ、世界があり続けているということよりも大きな奇跡でなければならないのか。人は職人の比喩に惑わされているのだ。誰かが靴を造るというのは一つの達成である。しかしいったん(手元にある材料から)造られたなら、靴はしばらくの間は何もしなくても存在し続ける。しかしながら、もし神を創造主と考えるのなら、宇宙の維持は宇宙の創造と同じくらい大きな奇跡であるはずではないのか、−−それどころか、それらは一つの同じことではないのか。なぜ私は一時の創造の行為を要請しておきながら、持続的に維持する行為は要請すべきではないのか? ある時に始まり、時間的な始まりのある維持する行為を、あるいは同じことだが、持続的な創造をなぜ想定すべきでないのか?
(1937年2月24日の記述より)


ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記