SAWANO Masaki, Gilles Deleuze

ドゥルーズを「活用」するドゥルーズを「活用」する!』(澤野雅樹、彩流社、2009年、ISBN:4779110564)を読む。

  • 虚構−−手書きの地図

 よく出来た映画は我々に無知ゆえの猛省を促し、知の空隙を埋めてくれる有り難い贈り物だとでも言いたいのか。いや、そういうことが問題なのではない。たとえ凡庸な知がすでにあったとしても、知は言葉で紡がれるものであり、知らされたこと以上のものは蓄積しない。映画は知ではない。映画は、今まで一度として存在したことのない光景を創造するのである。映画が映し出すのは虚構の風景であり、一度も現実になったことのない光景である。それは我々に自身が映し出すその光景を生きるように促す。そして、もしも目の前にいる人物の生をかつて実際に生きた人がいたとするのなら、その生と死をも含め、それら一切を新たな現実として、ともに目撃し、ともに生きるよう促すのである。
(……)
 そもそも生きてそこにいる人物をいかにして虚構と呼ぶことができようか。いや、映画が虚構であるということは、映画が現実を創造することと全く矛盾していない。むしろ関係は逆であり、虚構を自在に操作することすら適わないで、いかなる現実を創造しうると言うのだろう? 虚構は数十年にも及ぶ現実の苦難を数秒の映像に集約し、一葉の写真に凝縮し、数行の文章に圧縮して表現することができるのである。虚構は手書きの地図のようなものであり、その種の地図で示されない限り、誰の目にも留まることのない現実があるということを忘れてはならない。虚構の眼差しがあってこそ初めて生き始めることのできる現実があるのである。ピエール・ルジャンドルが言ったように、虚構の第三者とはカメラの目であり、それがスクリーンに注がれる光に乗り、虚空に現実を切り拓くのである。p129-130

 我々乗客が先ず耳を疑ったのは「マッハ文朱」という固有名である。その名は相応によく知られた名前ではあったものの、女子プロレスラーやタレントとして一世を風靡していた時代はすでに遠い昔の話になっていた。なおかつ当時、マッハ文朱の行状が取り立てて話題になっていたわけではないし、そのような報道がなされたという気配も感じられなかった。連呼しているわけだから、我々が聞き間違えるはずはない。そのため、我々の耳には、小父さんの言動がどこか遠い虚空に向かって異議を唱えているかのように感じられた。正確に言えば、あたかもマッハ文朱を擁護する言表が、山手線の乗客全員の耳に、一人の例外もなく確実に届けられなければならないものであるかのようにして、全車両を跨いで延々と谺していたのだが、誰もが「今、ここで必死に訴えなければならないことなのか?」という疑問を感じつつも、その種の疑問を抱くことすら滑稽に感じられるほど、時流から外れた言表が魂の叫びとして谺していたのである。p191-192

 したがって、もしも〈同じ生〉をいかなる留保もなく肯定するのであれば、その身振りによって肯定されるのは、実のところ同一性でもなければ存在でもなく、無限に反復される差異であるということになるだろう。ドゥルーズは同じ生の「同じ」という言葉が今や〈差異〉について言われなければならないと述べたが、そのとき、まさに差異の反復こそが留保なき肯定の対象になったのである。
 私たちは先ほど「同じ生が繰り返されるとしたら?」という問いを「差異のひとしずく」と呼んだ。なぜなら、その疑問符は、生に投入された途端、差異化されるべき差異の原子となって活発に働き始めるからである。そして、生は変化を始める。すなわち生は生成するのであり、生成のプロセスが肯定されることになる。p212