NAKAMASA Masaki, Arendt

『今こそアーレントを読み直す』仲正昌樹講談社現代新書、2009年、ISBN:4062879964)を読む。

  • 過去、共同体、判断

 個人の「意志の自由」をめぐる問題系から、政治共同体における「自由」をめぐる問題系へと話題を移すことを正当化するには、人間の「精神」の内に必然的に「政治」を志向する作用、つまり、他者の視点を取り込むことによって自己の視野を拡大し、新たな世界を切り開こうとする動きが備わっていることを何らかの形で示しておく必要があるだろう。『精神の生活』でのアーレントの議論の流れからすれば、「判断」がそれに相当する働きをするものとして想定されているのではないかと考えられる。アーレント自身、第二部「意志」の末尾で、"意志の自由"をめぐる袋小路から脱しようとすれば、判断力に訴える以外にないと示唆している。しかし、その判断力について書く前に彼女は亡くなっている。そのため、「観想的生活」と、「活動的生活」を結び付けるという最も肝心な課題が果たされないまま、『精神の生活』は未完に留まっている。
 ただ、彼女が七○/七一年にかけて行った「カント政治哲学講義」では、カントを通じて「判断力」の−−アーレントの意味での−−「政治」性についてそれなりに突っ込んだ議論をしたことが知られているので、そこから第三部「判断」でどういう主旨の議論が展開されるはずであったか、ある程度推測することができるわけである。
 ……。アーレントは、「未来」志向の「意志」と対比する形で、「判断」を「過去」志向の精神の作用として性格付けている。……。それをより一般的・抽象化して考えると、過去に起こったことの善/悪について「現在の私」の立場から判定する営みが「判断」である、ということになりそうだ。
 では、そうした「過去」の出来事に対する善/悪の「判断」がどういう風に「政治的共同体」と関わっているのか? ……。つまり、「判決」は、裁判官自身が属する政治的共同体の"これまでの考え方"をガイドラインにして下されるものなのである。
 このこととのアナロジーで考えると、我々は事の善/悪という、一見すると極めて主観的な価値についての「判断」を行うに際して、自分と同じ共同体を構成する他者たちの視線を取り込んでいる、ということが言えそうだ。善/悪の判定の根底に、他者たちの過去の考え方や価値判断が潜んでいるというのは、ある意味、至極当然の見方だろう。そうした「過去」を背景にした「判断」が、私がこれから行動を起こそうとするにあたり、自分の取るべき立場についていろいろと「思考」し、最終的に自らの「意志」を形成するに際しての基準になる。そういう形で、「思考」や「意志」は、「判断」と繋がっているのである。「判断力」は、「過去」と「現在」と「未来」を、そして個人の「精神の生活≒観想的生活」と「活動的生活」を結ぶ、極めて重要な能力として位置付けることができる。p186-189


今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)