SHIBATA Toshiko, Arendt

リベラル・デモクラシーと神権政治―スピノザからレオ・シュトラウスまで『リベラル・デモクラシーと神権政治 スピノザからレオ・シュトラウスまで』(柴田寿子、東京大学出版会、2009年、ISBN:4130101110)の第六章(「政治的公共圏と歴史認識」−−アーレントにおける「光の物語」と「闇の記憶」)を読む。

  • 自分の住処を自由にかえることはできない

そして「実存哲学とは何か」の結論で、アーレントハイデガーに反対して言うように、人間は孤独ではなく、多数者(複数性)のなかで生き現象しあっており、その諸現象こそが自己の存在を表示するのだから、自己の複数性、そして多数者の複数性の根拠は、人間に「共通の本性」ではなく、この同一なる世界の実在性にあり(HC,pp.57f.,五八頁)、それゆえに、人間は自己を自由に投企する実存ではないのである。
 確かに政治の場は、一面では自由の場であり、どの局面でどういうアイデンティティを主張するか、あるいは複数のアイデンティティを掲げるかは政治的判断力の問題であり、それが実存と公共世界を結ぶ鍵となるとともに、公的世界と私的世界の境界をも設定していく。しかし、世界のなかでどのように自己を自己提示するかという選択がどれほど重要なことであれ、近代哲学が夢想したように人間は自己自身をつくりだすことはできないのであり、「現存在のあること(thereness of existene)」を越えることはできない(LM I,p.37,四四頁)。自己の掲げるアイデンティティも、帰り来たる母体としての自我も、全く自由に選択されたものではなく、複数的な他者との諸関係に決定される側面をもち、自分の住処をかえることはできない。(「自己(Self)」の選択性と非決定性」、第三節)p148-149

  • 哲学が政治に寄与することができるための条件−−政治の領域の規則を侵さずに…

 ……。公共性=政治の領域に意見として表明され(represent)、他者を再現前化=代表して(represent)、他者に向かって語られる語りを、相互にたたかわし説得するという、ギリシャ政治の闘争(アゴーン)のモデルは、「事実の真実」や立証とは異なる歴史の認識には不適当だった。ここから、政治的領域の限界と、同意する人数の多寡にかかわらない非政治的で、一種の永続性にかかわる哲学の真理という問題が浮上する。アーレントは、『人間の条件』で強調していた、公共圏におけるギリシャ的政治活動と言論の重要性という視点をやや後退させ、「政治の領域全体はその偉大さにもかかわらず制限されていて、人間および世界の存在全体を包括するものではない」(BPF,p.263,三六○頁)と主張するようになる。
 アーレントによれば、政治の領域の原理は「誕生(natality)」であり、すべてを新しく始められうる自由や、複数性としての個別性を特徴とするがゆえに、政治の領域の思考とは、「事実はつねに別様でもありえた」という「偶然性」を示す思考、つまり「意志」である。これにたいし、真理の領域の思考とは「人間が意のままに変えることのできない事柄」「他ではありえない事柄」としての必然性について語ることであり、「過去をふりかえるときそれはすべて必然性である」(LM II,p.30,三七頁)とアーレントが指摘するように、それは本質的に記憶(memory)、回想(remembrance)であり、歴史的認識である。
 そして記憶や歴史は、政治における活動によって産みだされるという意味では、政治が「記憶の条件」「歴史の条件」をつくりだすのだが(HC,p.9,一○頁)、逆に、真理のコミュニケーションは「暴力(force of violence)」とは異なり、なおかつそれより強力な「必然性の力(force of necessity)」という「強制の要素」によって(LM I,p.60,七○頁以下)、政治の領域を制限する。つまり、歴史における真理は政治的領域において規範的役割をはたし、意志を規制しえる点で、制作や暴力とは異なる方法で政治の領域を安定させ、新しい行為の「出発点」を与える支えとなり(BPF,p.258,三五二頁)、その意味で、真理の思考は「[政治的秩序の]連続性と永続性とを保証する」支柱である(MDT,p.10,二○頁)。
 ところでアーレントによれば、この真理と政治の領域の関係は、自律(integrity)と境界(border)という概念でとらえられ、その典型は、ソクラテス裁判の例にみられる。アーレントは、ソクラテスの法廷における言論は、誰をも説得することができず、既成の権力に真正面から抗して真理を語ることは、政治的結果としては無力であったが、彼の言明の意味と力は、法廷での説得活動の時ではなく、死刑を逃れるのを拒否した時に現れたと論じる(BPF,p.247ff.,三三七頁以下)
 これは一般には、政治から分離された真理が、暴力の裏返しとしての無力さに陥ったにもかかわらず、限界状況で政治にたいして個人が示した「範例(example)」としての真理は政治的効力をもつという事例として解釈されている。しかし彼女が意図するポイントは、「真理」に命をかけた限界状況のなかで栄光ある政治的行為をなせといった卓越性の称揚にはなく、「哲学の真理」が「実践的」であり、かつ「倫理的妥当性」を確証しうるのは、「政治の領域の規則を侵さずに行為を鼓舞」できた場合であるという点にある(ibid.)。つまり、政治と真理の両領域は宗教と哲学と同様、相互に自律性をもち、その境界が尊重されていること(BPF,p.260,三六○頁)が重要なのである。(「政治と真理の自律と境界」、第二節)p138-139