OHGA Yuhki, Arendt, Dewey, Rorty

リチャード・ローティ―1931-2007 リベラル・アイロニストの思想リチャード・ローティ 1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』(大賀祐樹、藤原書店、2009年、ISBN:4894347032)を読む。

  • 多数性あるいは多元性

 つまり、現代には「政治経済学」なる学問まであるが、アレントは動物としての生命維持に関わる「経済」と、そのような生死の必然性を免れた自由の領域である「政治」を峻別し、純粋に「政治的なるもの」を抽出しようとしているのである。アレントがこのような区別に拘るのは、「大衆社会」とそれが生み出す「全体主義」を批判する文脈においてである。アレントは、「経済的利害」を中心に諸個人が均一化されることを批判するのだが、この時、近代資本主義社会において「家」がもはや「経済」の基本的単位ではなくなり、ポリス的な「政治と経済の区別」、つまり「公と私の区別」が実質的に解体している以上、公的な衝突を避け、私的領域の保護だけを重視するような、ミル、バーリン、そしてローティ型の近代の自由主義では、全体主義を食い止められないのである。アレントによれば、全体主義から逃れることのできる真の意味での政治的自由とは、公的領域において積極的に「活動」を行うことのできる自由でなければならない。公的領域において自由に自己の卓越性を他者と競い合い、相互の差異を明らかにすることで「多数性」は維持されるが、この「多数性」の消滅こそ、全体主義の起源である、とアーレントは考えるのである。p247-248

  • 目的論批判、共感という感受性の可能性とその限界

 だがヒューム以上にローティが重要な道徳哲学者として見ているのは、デューイである。そのデューイは、「単一の、最終的で、究極的なものへの信仰」ではなく、「変化し運動する個別的な善や目的が数多くあるという信仰」を重視する。

 二度と動かぬ固定した目的としての健康でなく、必要な健康の増進−−という継続的な過程−−が目的であり善である。目的はもはや達すべき終点や限界ではない。目的というのは現在の状況を変えていく積極的な過程なのである。究極のゴールとしての完成ではなく、完成させ、仕上げ、磨き上げる不断の過程が生きた目的である。健康、富、学識と同様、正直、勤勉、克己、正義なども、これらを到達すべき固定的な目的と考えた場合と違って、所有すべき善ではない。それらは、経験の質的変化の方向なのである。成長そのものが、唯一の道徳的「目的」である。

 これは、カントに代表される「目的論」的な形式の道徳哲学に対する批判でもある。しかし、デューイは、ローティやヒュームのように必ずしも「苦痛」に対する「共感」というものをとりわけ重視しているわけではない。確かにデューイも「苦痛」に対する「共感」の道徳性の効用を認めるが、むしろそれが家族や友人、身近な人をこえて広がることはまれであるということを問題にする。そしてそれが、ローティ自身も認識し、ヴォパリルも指摘している「共感の限界」の問題なのである。p301-302

  • 両立

 近代的な自由主義思想が前提とする人間像とは、普遍的、画一的なものであった。ローティの哲学が前提とする人間像は、その反対に、偶然的に自分のものとなったそれぞれの「物語」によって多様なあり方をしている人々というイメージである。現代において自由主義に対する批判の多くは、その画一的な人間像に対してなされている。例えば、後に取り上げる、多元性や差異を重視する民主主義論や、いわゆる「リベラル−コミュニタリアン論争」もそのような論点をめぐってなされた。これに対し、ローティにおいては、多元的な人間像と近代的な自由主義擁護の両立がはかられているのである。
 先の「バザール」において交渉する時点においては、人々は自らの価値を括弧に入れた人間として存在する。これは、まさしくロールズ的な「無知のヴェール」がかかった状態とみなせるかもしれない。だが、ローティ的な観点に立てば、ここで人々は「ミルの仮面」をかぶっているにすぎず、実際には内側に多様性を隠し持っているのである。そして、デイヴィドソン主義者としてのローティからすれば、いかに相容れない価値観を持つ者同士であっても、少なくとも互いを「合理的」な存在と見なし、「会話」を成り立たせることは可能なのである。そして、そのような状況では、単一で包括的な価値観が存在しない以上、「共通悪」としての「苦痛」を避けるというミニマムな原則こそ活きてくるのである。p189-190