HOSOMI Kazuyuki, Arendt

「戦後」の思想―カントからハーバーマスへ『「戦後」の思想−−カントからハーバーマスへ』細見和之白水社、2009年、ISBN:4560080321)を読む。

 アーレント自身は『人間の条件』において、「約束」、「赦し」、「始まり」をすべて「活動」ないしその「潜在能力」のなかに押し込めている。「始まり」としての「活動」は、「不可逆的」でかつ結果を「予見不可能」であるがゆえに、それには「赦し」が必要であり、また「約束」によってその「予見不可能性」には一定の制約があたえられねばならない。それが彼女の議論だが、その「赦し」(「愛」とも呼ばれる)と「約束」もまた、まさしくまったく新しいことを「はじめる」能力なのである。いわば「始まり」には一種の万能的な機能が認められる一方で、まさしくその「始まり」のもつ限界が「赦し」と「約束」というもう一つの「始まり」によって補完されている。この議論に、二匹の蛇がたがいの尻尾を噛み合っている、いわばウロボロスのような不可解な構造が認められることは確かではないだろうか。
 繰り返せば、しかし、このような体系的整合性をはみ出すアーレントの叙述のあり方、もっと言えば、思想(Gedanken)の整合性をたえず乗り越えるアーレントの思考(denken)の自律的な力にこそ、私はアーレントのもっともアクチュアルな魅力を感じる。「労働」「仕事」「活動」という周知の枠組みは、アーレントの思考が自らを自律的に展開するための、いわばデッサンにすぎないとさえ思われる。その思想のデッサンのうえにアーレントはたえず自らの思考を重ね塗りし、、当初のデッサンをほとんど無効にしてゆく。そのときアーレントにおいては、自らの思想もまた彼女の思考にとっての「他者」となるのだ。p274-275

  • 誕生の思考

 このように考えるなら、絶望的な時代経験のただなかにおいて、ハイデガーの「死の形而上学」から身を解き放ちつつ、ヘンデルの『メサイヤ』との出会いないし出会いなおしをも触媒として、ベンヤミンのメシアのイメージをさらに徹底して世俗化することによって確立された思想−−アーレントの「誕生の思考」を私たちはそのように理解することができるのではないだろうか。
 ここで、ヘーゲルが『精神現象学』の基軸に据えていた「承認」が「悪とその赦し」によって「達成」されたことを、ぜひとも想起しておく必要があるだろう。その承認は、自己と他者がそれまでとはまったく異質なものへと転化するような「相互承認」だった。まさしく赦すとき、約束するとき、あるいは赦されるとき、約束されるとき、私たちはまったくそれまでとは異質な存在へと「奇跡的」な転化を遂げるのではないだろうか。アーレント自身「活動」を「第二の誕生」と呼んでいるのだが、ヘーゲル精神現象学』で確認したあの「生きのび(ueberleben)」の思想は、ここにおいて「異質な自己への生成としての誕生」という位置づけを得ることになるだろう。その「生きのび」を名詞化してふたたび「超生(Ueberleben)」と呼ぶならば、ローゼンツヴァイクが考えていた「超世界(Ueberwelt)」とは、そのような「承認」をつうじた「超生」として私たちがたえず生きのびてゆく、あるいは新たな異質な「私たち」、アドルノ的に言うならば無数の「非同一的な私たち」を、たえずいきのびさせてゆく、そのような「世界」にほかならないことになるだろう。p294-295

 人間の創造の目的は、一つの始まりを可能にすることだった。「始まりが存在せんがために、人間は造られた。そのまえには誰も存在しなかった」−−Initium...ergo ut esset, creatus est homo, ante quem nullus fuit.(始マリガ存在センガタメニ、人間ハ造ラレタ。ソノマエニハ誰モ存在シナカッタ)始まりにたいする能力そのものが生まれることに根拠をもつのである。それはけっして創造性にも、才能にも根拠をもつのではなく、人間が、新しい人びとが誕生によって何度も何度も世界のなかに現われるという事実に根拠をもつのである。(『精神の生』第二巻末尾)p295-296