KOKUBUN Koichiro, ennui

暇と退屈の倫理学

  • 人間的自由の本質

 ここで誤解してはならない。人間は習慣なくしては生きられない。人間はどうあっても、気晴らしと退屈の混じり合った生を生きざるを得ない。だから、この条件を超越して、考えることのきっかけをすべて受け取ろうと考えたり、人に「目を開け!」「耳を凝らせ!」などと強制してはならない。それは「人間は世界そのものを受け取ることができる」という信念の裏返しである。そしてその信念は人間の奴隷化に帰する。
 人間が環境をシグナルの体系へと変換して環世界を形成すること、つまり、様々なものを見たり聞いたりせずに生きるようになることは当然である。大切なのは、退屈の第三形式=第一形式の構造に陥らぬようにすること、つまり奴隷にならないことである。
(……)
 人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと「不法侵入」を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。この環世界の創造が、他の人々にも大きな影響を与えるような営みになることもしばしばである。たとえば哲学とはそうして生まれた営みの一つだ。
 しばしば幸運な例外もあるだろうが、人間はおおむね人間的な生を生きざるを得ない。だが、人間にはまだ人間的な生から抜け出す可能性、〈動物になること〉の可能性がある。もちろん、人間は後に再び人間的な生へと戻っていかざるを得ない。人間は習慣を求めるし、習慣がなければ生きていけないのだから。だが、ここにこそ人間的自由の本質があるのだとしたら、それはささやかではあるが、しかし確かな希望である。あるときに人間が開けてしまった退屈という名のパンドラの箱には確かに希望が残っているのである。(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p334-335)