AZUMA Hiroki, Rousseau

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

  • ルソーを見直す

 ルソーは都会の「おしゃべり」を嫌った。そして自然を愛した。四○年代の半ばからはパリを離れ、郊外の田園に居を構え、作品でも田舎暮らしへの郷愁を執拗に描き続けた。死後に出版された『告白』には、ルソーが同時代のサロン知識人に抱いていた、被害妄想めいた不信感が赤裸々に記録されている。小説の『新エロイーズ』と自伝の『告白』、両者はまったく異なった質のテクストではあるが、共通して印象に残るのは、スイスの湖畔や田園風景を描く瑞々しい筆致とパリの都市生活を描く沈鬱な文体の激しい対比である。晩年のエッセイ『孤独な散歩者の夢想』では、彼はついにつぎのように書き留める。「この世にはもう隣人も同類も兄弟もない。私は地球の上にいながら、見も知らぬ惑星にいるようなもので、以前住んでいた別の惑星から落ちてきたような気持ちである。」
 つまりルソーは、一般に政治思想家や社会思想家といった言葉で想像されるものとはかなり懸け離れた、現代風に言えばじつに「オタク」くさい性格の書き手だったのである。彼は、人間嫌いで、ひきこもりで、ロマンティックで繊細で、いささか被害妄想気味で、そして楽譜を写したり恋愛小説を書いたりして生活をしていた。『社会契約論』は、そのようなじつに弱い人間が記した理想社会論だったのだ。
 だから彼は、コミュニケーションなしの政治を夢見た。サロンなしの一般意志の生成を掴もうとした。(東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』、p61-62)

 けれどもルソーにおいては、対照的に、社会が生まれたのは、単純に人間が他人の苦しみに共感し手を差し伸べてしまうから、彼自身の言葉を用いれば「憐れみ」をもっているからということになっているのである。人間は「憐れみ」のゆえに、幸せな孤独を捨てて群れて生きてしまう。そしてこの「憐れみ」は、決して人間独特のものではない。それは理性や反省から離れたもので、一部の動物たちにも備わる能力である(「それはわれわれと同じように弱く、同じように不幸になりやすい存在にはふさわしい素質であり、人間にとって、あらゆる反省の行使に先立っているから、ますます普遍的で有益であり、獣さえもときにはその徴候を示すほど自然な美徳である」)。そして、人間は、まさにその「獣」に近い能力によってこそ社会を作って自分たちを守ることができたというのが、ルソーの主張なのである。彼はつぎのように述べる。「理性によって徳を獲得することは、ソクラテスやそれと同質の人々のすることであっても、人類の自己保存が、人類を構成する人々の理性の行為にのみ依存するのであれば、ずっと以前に人類はもう存在しなくなっていたであろう」。人間は人間(合理的存在)だから社会を作るのではない。人間は中途半端に動物だから社会を作ってしまうのであり、むしろその弱さによって、人間は人間としてかろうじて生き続けてきた。それがルソーの基本的な人間観、社会観なのだ。(同書、P123-124)

 筆者の考えでは、ルソーの理想は、意識ではなく無意識に、「人の秩序」ではなく「モノの秩序」に導かれる社会にあった。実際にそのように解釈してはじめて、彼が、『社会契約論』の著者であるのと同時に、ロマン主義を準備した情熱的な文学者であり、恋愛小説や告白小説の作者でもあったという事実が整合的に理解できるのである。この思想家については長いあいだ、政治思想家の側面と文学者の側面、『社会契約論』と『告白』の分裂が指摘されてきた。しかし、筆者の観点からすれば、いままでそれが分裂しているように見えてきたのは、ルソーのいう「意志」をあくまでも意識的な行為として、そして「社会契約」を功利的で合理的な判断による行為として捉えてきたからにほかならない。しかし実際には、ルソーはそこで、意志として理解されない意志、契約として意識されない契約についてこそ語っていたのだ。
 そして、このルソー理解からは、必然的に、近代の民主主義社会は、熟議民主主義の理論家たちが主張するのとは異なり、じつは「大衆の無意識に従うこと」を目的として生まれたという結論が導かれる。(同書、p165)