HIROSE Jun, Pessoa
- 本のタイトルにもなった題がついたエッセイにある言葉。マノエル・デ・オリヴェイラ監督の映画『ブロンドの少女は過激に美しく』の中で紹介されるフェルナンド・ペソアの詩集−−ペソアはいくつもの異名をもつポルトガル人作家で(pessoaは、ポルトガル語で「誰でもない」を意味する)、その詩集にはアルベルト・カエイロと署名している−−からの一節を引いて。
「私は善人でなくて本当によかった。咲くことや流れることだけにそうと意識することなく集中し、おのれの道をひたすら突き進む花々や流れのそれのような自然的エゴイズムを私ももつことができて本当によかった。これこそが世界における唯一の使命ではないか。澄みきったやり方で存在するということ、そして、考えることなしにそうするということだ。」
互いに思いやったり、社会正義を叫んだり、そのための闘争を呼びかけたりするような「善人」にとどまっている限り、人々は「不幸を運命付けられた」ままである。さらにまた、各人が自分で自分のことを考えたり気にかけたりすることすら、幸福を遠ざけることにしかならない。反対に、他人についても自分についてもいっさい考えを巡らすことなく「おのれの道をひたすら突き進む」花々や川の流れのそれのような「単純な魂」をもつときにこそ、つまり、自然界で生きられているような「エゴイズム」をそれとして取り戻し「善人」であることをやめるときにこそ、我々は幸福に生きることができる−−カエイロはそう言っているのだ。そしてまた、これを自身で体現する”超人”としてその姿を現すからこそ、ペソアはカエイロという自らの「異名者」を「我が師」とも呼ぶのである。(p147-148、「蜂起とともに愛がはじまる」)