the limits of control, Jim Jarmusch,

リミッツ・オブ・コントロール@シネ・リーブル梅田。

この映画について、何を書いておくべきか。画面を構成する図柄や色彩の組み合わせの美しさ、だろうか。実際、久しぶりにスペインを訪ねてみたくなったのも、そのせいに違いないのだ。あるいは、映像を支配しかねない音楽の圧迫的な強さ、だろうか。たとえば、フラメンコのシーンは人やカメラの動きも、それに被さる音も圧倒的で、これだけでもこの映画を見る価値はある。撮ったのが村上龍でなくてよかった、とつい思ってしまった。
一見して、ジョニー・デップが主演したデッドマンを思わせる。この映画はある種、あの作品のリメイクと言えなくない。しかし主人公にそれほど死の影はない。むしろやや遠退いているというか、薄らいでいる。ただ、生の偶有性というか偶然性はここではもっとはっきりしている。彼に付き添う人物はいない。デッドマンのときも、実はその男はNOBODYだったのだが。
ボクサーが図案になった青と赤のラベルのマッチ箱が、仲間である符牒と指令を伝えるメモを忍ばせた入れ物として取り交わされるように、彼と出会う人々も次から次へと替わっていく。主人公は生き延びる。たぶん。少しあとになってから、じつは彼に付かず離れずにいたらしいことが、それとなくわかる女性の方が、命を奪われている。これはデッドマンとの違いである。
しかし似たようにも聞こえる永く後を引くような音楽は、デッドマンのときとは違って、事後から振り返ってみたときに考えられそうな、現在というものが秘めていた可能性というようなものをではなく、今まさに他でもないその現実へと実現されつつある動きというか力としての現在、その潜在性をこそ際立たせようとしているのではないだろうか。音楽が世界に力を与えていて、世界はその音楽の力によって現実となっているかのような。終わりという感じで終わるのではなく、終わりに始まりの感じが残っているのも、こちらの映画の方だ。
最後にメッセージのような、ある言葉が映し出されて、何だか裏切られたような、また安心したような気持ちになる。家具を残して引き払った後の家の壁に掛けられた埃よけの布で覆われた額縁。何もメモが書かれていない真っ白な小さい紙切れ。美術館に展示された襞の形状(でできる陰影)だけを鑑賞させようとしているかのような、キャンバスの内側にそれと同じ白の絵の具で塗り固められた覆いで構成された作品。白いもの、覆いの向こうにあるものとは、鏡ではないのか。
そういう問いを招き寄せながらも、誘われがちな答えへと導かれそうになるところを、うまく裏切ってくれた映画だった気がする。後から振り返ってみたときには、鏡の世界に「外」などないのだとしても、いつも今ここがそのフレームの「内」だというわけではない。たとえば、この映画を観ているあいだの私たちがそうではないか。私たちに記憶があり、想像力がある限り、そんなことを決めつけるのは、誰にもできないのである。

追記
この映画について書かれた文章がweb上にあった。たしかに、ビル・マーレイが出てきた瞬間、それまでの映画の緊張は一挙にほぐれる。何が異なるかといって、マーレイの語りが、それまでのどの人物たちとも違っていて、その調子が違いすぎるのだ。高い音調で、叩きつけるように速くて強い口調。
マーレイが登場するまでの人物たちには共通点があった。世界についての、あるいは映画についての、見解というかコメント。低くゆっくりとした口調で、それらは当面の情報の授受という彼らの義務としての仕事とは、とりあえず無関係であるかのように語られる。
箴言のようにも聞こえるのは、それがどこか遠い過去からの、あるいはある種の高みから呟かれた、とくに今ここで目の前にいる相手であるこの映画の主人公に対してではなくてもよい言葉のように思えるからだろうか。ただ、マーレイのものも含めて、話される言葉のすべてがモノローグ的なのが気になるところだ。殺されたあの裸で現れた女の子の言葉を除いては(しかし、彼女に対しては、今度は主人公が仕事中だからといって、まともに相手にはしないのだった)。
言葉は、心は、伝わっているわけではない。では何が授受され、何が伝わっているのか。裸の女もそうなのか。敵だけが、マーレイだけが、地上の言葉を話す。世俗の、欲望の。瞬時にマーレイの建物の中に入った主人公が、想像力を使った、といったのはよかった。おもしろかった。その後、マーレイに「俗語」を語らせるのもいい。しかし、あれほど長くは要らないのではないか。やはり、瞬時に彼の背中に忍び寄る主人公、彼の首の肉に食い込むギターの弦、といったカットを短い時間に続けざまに映す、というのはどうだろう。
しかし、とここでふと思う。この殺人は、心の痛みとして、僅かにでも主人公の記憶に残るものなのだろうか、と。それまでに男は、これまで自分がやってきたことの記憶に苦しめられるような様子をいっさい見せてはいない。ジャームッシュが、殺人に特別の関心を持っていることは疑いがない。デッドマンでは、殺されること、死ぬことが前面に出ていて、死こそがリミットとして描かれていた気がするが、それも本当かどうか、もう一度確かめてみたい。
この映画では、殺しが一つのリミットであり、またリミットを超える行為としても描かれている。エンドロールの最後に置かれることになる言葉の、一つの解釈として、そんなことを思った。